ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

幸福を感じる方法パン

国連の調査で日本の幸福度が発表された。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190321/k10011855631000.html

 

幸福度58位

 

昨年の調査よりランクダウンしているらしい。

だけどこれって比較難しくない?それぞれの国の国民が自分の生活を幸せだと思ってるかどうかなんて比べられないでしょ。

例えばある国で一番有名で誰もが憧れる存在の人が、頑張れば手が届くくらいのところにいる場合はおそらく国民の幸福度は高いだろうし、逆に到底手が届かない存在であれば相対的に幸福を享受できていないと感じる人が多いのも当然だと思う。

 

幸福の基準が低ければ幸福な人は多いことになるから順位は問題じゃない。むしろ幸福度の順位が低いことはその国の幸福の基準が高いとも言える。

その要因が格差なのか権利なのかその他なのかわからない限り、順位の高低だけで語ることは何もないように思う。

 

さらにこの調査には他の項目もある。

 

自由度64位

 

国民はあまり自由を感じていないという。
だが「自由じゃない」と主張する割に人に合わせることから逃れようともしていない気がする。

現役合格や新卒入社にこだわるし、旅行雑誌とか結婚情報誌とか買うし、ネットの評価が気になるし、結局ディズニーを選ばされている。

自分で決めるを次々と放棄しておいて「自由じゃない」なんておかしな話だと思う。

 

僕自身実感している。

誰かに決められたことは続かない。気持ちが向かない。結果楽しくないし、それに対して責任もない。

だが自分で決めたことは全てうまくいっている。ドイツ語も楽しく続けられているし、今の仕事も充実してやれている。失敗しても言い訳はできない。だからこそうまくいった時の幸せは全身で受け止めることができる。

 

幸福を実感するために、まず自分で決めることから始めてはどうだろうか。

仕事や夢などスケールの大きいことから、食べ物や着るものなど身近なことまで、“あの人が言ってたから”をやめてみること。

好きなことパン

イチローの引退会見で気になったところを引用する。子供たちへのメッセージの場面だ。

 

野球だけでなくてもいいんですよね、始めるものは。自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つければそれに向かってエネルギーを注げるので、そういうものを早く見つけてほしいと思います。

 それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁にも、壁に向かっていくことができると思うんです。それが見つけられないと、壁が出てくるとあきらめてしまうということがあると思うので。いろんなことにトライして。自分に向くか向かないかよりも、自分の好きなものを見つけてほしいなと思います。

 

大好きな野球と真剣に向き合い続けたイチローならではの言葉だろう。

 

イチロー大坂なおみ藤井聡太本庶佑も、それぞれの世界で一流として認められた人達に共通することは「好きなものを夢中になって突き詰めた」だと思う。

 

様々な分野で目立った活躍をする人物が現れる度に、メディアは大きく取り上げる。

好きなものを極めて認められた人物を「すごい!」と取り上げる割に、教育はみんなが同じであることを重視するところから抜け出せていない気がする。

ましてや、何かに一生懸命になっている人を見て冷笑する空気すらあったりする。

 

一定の基礎教育が必要だし社会基盤となることは承知の上でだが、

子供のうちに好きなことに時間を費やして伸ばすということはこれからの世の中で必要な教育の姿勢ではないだろうか。

 

今回のイチローの会見を見て、

イチローはやっぱり凄いね」で終わらせてはいけない。

 

自分が熱中できるものを見つけ、壁に向かっていくこと。いろんなことをやってみて、好きなことを見つけること。

 

とはいえ子供は知っている世界がまだまだ狭かったりもする。だからこそ大人がいろんなものを見せて教えて体験させてあげることが大切だと思う。なるべく多くの選択肢から子供の好きなことを見つけられるように。

 

子供だけじゃなく大人もそうだと思う。

せっかく覚えたのにパン

小学生の頃、何年生だか覚えていないが社会の授業で自分が住む県にある市町村を全て覚えて白地図に書き込むというテストがあった。

 

全部合わせて56個。

56点満点のテストだった。

 

言うまでもなく、その後平成の大合併により次々と小さな町と村が消えていった。

今日現在の総数は20に満たない。

 

あの一生懸命覚えた時間は何だったのか。

テストで間違えて存在しない村の名前を書いて恥ずかしい思いをしたのは何だったのか。

だってそのほとんどが現に今存在していないじゃないか!

 

無意味なテストをするべきじゃないと今になって思う。

 

ドイツ留学の時も似たようなテストがあった。

ドイツには16の州があり、それを全て穴埋めするテストだった。

複雑な名前もあるので学食で覚えようとしていると、隣のドイツ人学生が声をかけてきた。

「そんなのドイツ人の俺も覚えてねーぞ」

彼に日本人は47個の都道府県を全部覚えているという話をすると、信じられないという風に笑っていた。

しかし話を聞いてみると、その学生も含め多くのドイツ人が自分が住む街や州のことについては異常に詳しいことがわかった。

(たまたまそういう人が多かっただけかもしれない)

 

ただ地名を覚えるよりも、自分が住む土地についての歴史や今の出来事を教わる方が為になる気がする。

小学生にわかるような教え方でいい。

そうやって地元に愛着を持つことが、他の地域の人の見方を理解することにも繋がるのでないだろうか。

開花宣言パン

先週あたりから桜の開花予想がちらほらと聴こえてくるようになった。

 

意外と知らないことだが、各地に目安となる桜の木があって、東京だったら靖国の桜が5輪咲いたことが確認された時点で「開花宣言」がなされるらしい。

 

今年も20日か21日か、みたいなことが言われていたが、そんなこと1週間以上も前から話題にする必要があるだろうか?

 

気象観測データとして毎年どの地域の桜がいつどのくらい咲いたかの記録が必要なのは十分わかっている。

しかし予想は必要ないだろう。

 

来週ですかね〜

何日でしょうか〜

って予想が当たったら何か貰えるの?

 

 

お出かけの予定を立てるという意見もある。

 

いや、開花してすぐの桜を見にお出かけする人はあまりいないでしょ!?

大抵は7分8分咲き位とか、できれば満開の桜の下で花見をって考えるものだろうと思う。

 

そして先程言ったように、目安の桜が開花したかどうかだけの話なので、家の近所ではもう咲いてるよ〜って人もいるはず。

開花宣言したから花見に行くのではなく、桜が咲いているから花見に行くんでしょ!って話。

幸せパン

インスタグラムとかSNSで、

 

美味しいものを食べた

楽しかった

お出かけした

甘いものを食べた

人から物を貰った

高級なものを食べた

 

みたいな時にすぐ「幸せ」って付けるのなんなんだろうと思っている。

 

僕としては、あの人達が何でもかんでもすぐに「幸せ」の皿を取っちゃうから僕の目の前まで回って来ないじゃないか!みたいなイメージを持っている。

 

そして最近は流行りもあってか、

「◯◯好きと繋がりたい」と付けてるのを見て

まだ満足ではないのか!と思ったりする。

 

苦労して苦労して苦労して、ようやく掴んだ最高のひとときを表す単語が見つからない。

言ったもの勝ちパン

仕事をしているとお客さんから頼みごとをされることがある。

多少無茶な頼みでも、申し訳なさそうにお願いされると、今回だけはいいかなと受けてしまうこともある。人間だもの。

 

しかし中には強い口調で激しく要求されることもある。

ましてや自分の勘違いをこちらの責任にしてなぜか怒っていたりする場面では、何かしら対応しないと収まらなかったりもする。

正直そんな要求は受けたくないが仕方ない。お客さんだもの。

 

僕はこの言ったもの勝ちの空気がものすごく苦手だ。

 

「ごめんなさい、今はできないんです…」と言ってわかってくれるAさんがいる一方で、

 

「早くしてよ!何でできないの!」と無理矢理要求を通そうとするBさんがいる。

 

この時にとても悩む。

対応しないとBさんは収まらないが、それならやむなく諦めたAさんも強く主張すればよかったことになってしまう。

 

学生時代に焼肉屋でバイトをしていた時もそうだった。

1週間で最も忙しい日曜の夕方。店は満席で2階の団体客の対応にも人手を要していた日のこと。

ピンポーンと呼び出しボタンが押されたことには気づいているが、先にこの皿を運ばなければ厨房の場所が空かないから、

「すみません!少々お待ちください」と声をかける。

そんな時に別のテーブルから、

「おい!早く持ってこいよ!」とキレ気味の怒声が響いたので、トラブルを避ける為にそちらに向かうしかないという経験をした。

 

こういう場合も言ったもの勝ちなのがとっても悔しい。静かに順番を待ってくれたテーブルに何かサービスしたいくらいだ。

実際店長がデザートを出したこともある。

 

物分かりの良い人が損をする社会であってはならない!

 

結論、僕がそういう性格だからだ。

成人パン

Netflix「世界の今をダイジェスト」の“不老不死は可能か?”を見た。

 

長生きはしたいが、ただ長生きするのではなく、一番良い時期を長く過ごしたい、というのが多くの人の望みだと思う。

 

長く生きてもその期間の生活を支えたり楽しんだりするお金がなければ仕方ないとも話していた。

 

そこでふと考える。

誰もが80歳、90歳、100歳まで生きられるようになった将来の世界で、60代70代の人が元気に仕事ができるようになれば「老人」という概念は後ろ倒しになるのだろうか?

そしてその時、子供が「成人」となる基準も同様後ろ倒しにしてみたらどうだろうか?

 

今、多くの国では18歳や20歳になると「成人」と呼ばれ、選挙権など責任の伴う権利を与えられる。この時期に高校や専門学校、大学を卒業して仕事に就くという人が多いと思う。

 

元々20歳を「成人」と設定する前の時代があるはずで、人類がもっと長く生きるようになったならばその設定を考え直すことが起きても当然ではないか。

 

この「成人」を後ろ倒しに設定してみると、例えば30歳までしっかりと勉強をして社会に出るというようなことが可能かもしれない。

つまり全体の基礎学力をもっと高くできるかもしれない。

そもそも働いている人口が増えている前提なので税金も教育に注ぐことができる。

学問や研究の機会を増やすことでさらに新しい分野が開拓されるだろうし、もしかするともっと長生きができるようになるのかもしれない。

 

そういえば元々平安時代などは10代から大人として扱われていたと思う。

となるとやはり「成人」の基準は後ろ倒しになっていくものだと言えるだろう。