ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

子供のおもちゃはどこへ?パン

今年もクリスマスが近づいてきた。

昨年はこのブログで、クリスマスのおもちゃのキーワードは「大人です」という衝撃的な発言を取り上げた。

mumusanopinojr.hatenadiary.com

だから2023年は一体どうなったのかなと確認の意味を込めて、ここに追記してみる。

 

まずはこの記事

大人も躍起“リベンジ買い”売り場に変化も クリスマス「おもちゃ商戦」本格化

この中で偉い人たちがこんな風にコメントしている。

日本玩具協会・専門委員 藤井大祐さん 「クリスマス商戦でも、大人が自分のためにおもちゃを買うのが増えています」

そして

日本トイザらスマーケティング本部 立原俊久部長 「こちらが10月から展開の『大人の方向けのコーナー』です」

ほうほう、なかなか香ばしい。

実際この記事の取材でも、子連れの親が「自分用にも買っている」ことを話している。

また、子供の頃に買ってもらえなかったものを大人になって自由なお金を持つようになって買っているという例も紹介されている。

 

もう一つこの記事

「大人向けのおもちゃ」が売れまくる理由。2大メーカーは“競技化”で更なる高みに | 日刊SPA!

ここでは日本の2大玩具メーカーが「大人向けのおもちゃ」で売り上げを伸ばしていることが伝えられている。

 

上記のように大人が自らの財力をもって好きなものを集める「コレクター市場」は当然あっていいと思う。

が、それはあくまで「グッズ」であって、もはや子供が遊びに使う道具としての「おもちゃ/玩具」とは程遠いものになっていることを忘れてはいけない。

子供の成長に欠かせない遊びの道具としての「おもちゃ」ではなく、お金を持っている大人に向けた「商品」を売りつけることが主となっているのであれば、こんな会社を「玩具メーカー」と認めることはできない。

 

また、子供の頃に買ってもらえなかったおもちゃを大人になって買い集めているというのは単純に「大人の幼稚化」じゃないのか。

「子供心」という言葉を使う人もいるだろうが、現実の戦争に無関心で、アニメやヒーローの戦いに夢中なのはただの「子供」としか言えないだろう。

 

大人向けのおもちゃを作るメーカーも、それを買い集める大人たちも、それを報じるメディアも、みんな一旦「子供が遊ぶ道具としてのおもちゃ」について真剣に考えてみない?

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長くて短いパン

PLANETS YouTubeチャンネルの箕輪厚介と宇野常寛の対談を見た。

箕輪厚介vs宇野常寛 意識高い系ブームの終焉と、その次に来るものを語り尽くす会 - YouTube

この中で今の社会が「人を責めることに注力しすぎて、事の解決に繋がっていない」という話をしていた。

僕はこの動画を「やっぱり箕輪さんいいなぁ」と思う部分と「でもこういう所が好きになれないなぁ」と思う部分を感じながら見ていたんだけど、それがまさに動画内で語られていた「人って0か100かじゃないじゃん」ってことなんだと思う。

 

ところで先日、NETFLIXの『トークサバイバー』を見ていてアンジャッシュの渡部はやっぱり面白いなぁと思った。

トークサバイバー!〜トークが面白いと生き残れるドラマ〜 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

週刊誌に取り上げられた件に繋がる話ばかりしていたことはあまり好ましくなかったけど、その話し方や他の芸人とのやり取りにおける"表情"と"声色"と"ワードセンス"がずば抜けて上手い!

これを実家の母に話すと「あれ以降この人見たくない」と言われたことがとても気になっている。
そもそも母はアンジャッシュのネタを「面白い」と評価していた人なのに、週刊誌の件を機に「嫌い」になるというのが興味深い。
もう少し付け加えると、嫌いになったきっかけは"週刊誌に取り上げられたこと"であって、それを知るまでは彼が裏で何をしていても嫌いになってなかったというのがおかしな構図だと思う。

当然批判され嫌われるようなことをしたとはいえ、それと同時に彼の持つお笑いの能力が高いということは両立するはずなんだけど、一度「嫌い」になった人にはあまりわかってもらえない。

 

これは今回パワハラ報道のあった楽天の安楽にも言えることだと思うんだけど、明らかにされるまでは応援していた投手だったにも関わらず、突然彼のことを"全否定"するようになるのもいただけない。

もちろん彼が今の楽天に居続けることは到底あり得ないが、彼がプロで活躍できるくらい投手としての実力を持っていることに変わりはない。それとこれとを別で考え、「セカンドチャンス」ということを視野にいれた楽天球団の会見は間違っていないと思う。

そして個人の問題ばかりが取り沙汰されてしまい、パワハラが生まれやすい日本のスポーツ界の上下関係の改善の話、ひいてはあらゆる組織の同様の構造について考えなおすきっかけにできないのがまさに「事の解決に繋がっていない」ということなんだろうな。

 

結論としては、どんな人にも一長一短があって、短い部分があまりに足りてない人というのもいるんだけど、だからといってその人の長い部分が帳消しになる訳じゃないし、そこを活かしてその後の人生を送る権利もあるんだってこと。「こいつは嫌い!」って言い切ることがいかに的外れであるかをしっかり理解しておきたい。

 

小児性愛パン

テレビ番組で「小児性愛障害」の特集を見て、妻が

「こういう人ってどうしたらうまく生きていけるんだろう?」と言っていた。

 

SNS上では多くの人がかなりキツイ表現で小児性愛を否定・批判している。

当然それらが判断力のない子供たちへの性加害を恐れているのもよくわかる。

一方で、昔と比べて「多様性」というものが日本でも浸透しつつあり、例えば性的マイノリティの認知もこの10年だけでも大きく変わったと思う。

そうやって同性愛者は徐々に理解されてきたように、小児性愛者も理解されることがあるんじゃないか、それが「人権」だし「多様性」なんじゃないかというのが妻の考えたことだった。

 

これを聞いて僕も一緒に考えた。

小児性愛もその人の中に芽生えた特性ならば、まずはその存在を認めなくてはいけない。

そもそも問題なのは性加害者となっている場合であって、被害者を生まなければ小児性愛者は誰からも咎められることなく生きていけるはずじゃないのか。

 

20年前くらいは「ゲイ」という言葉やその存在自体がとても異質で、ものすごく否定的に扱われていたはず。それが今現在「小児性愛」にかけられている言葉ととても近いんじゃないかと思う。
つまり今は犯罪と併せて大きなマイナスイメージがついてしまっているが、小児性愛の存在自体が悪いものではないことが世間に知られ、かつ当事者が世の中に一定数いるんだということがわかってくればいいんじゃないだろうか。何年かかるかわからないけど。

 

異性愛者だって、衝動が抑えられずに満員電車で痴漢行為に走る者がいる一方で、「こういうことはしない」と理性を働かせて生きている人も多くいるはずだ。

であれば、小児性愛者がみんな犯罪者なはずはなく、そこに当たり前の理性や倫理観を持って生きている人もいるに違いない。

そう考えると先に挙げたようなSNSでキツイ悪口を書いてしまうような側にこそ指摘すべき問題点があるようにも思えてくる。

 

人はやはり自分の理解の範疇を超えた存在を脅威に感じるようになっているので、敵視するような行動に出るのも理解できる。子供への犯罪の可能性もあるとなると尚更かもしれない。

だからこそやはり「理解できない性的思考」について一旦考えてみることが必要なのだと思う。朝井リョウの『正欲』なんてまさにそういう物語だった。

一度「これは悪だ」と認識してしまうとそこをノーマルに戻すのは用意ではない。だからこそ僕らは常に偏見を持ちやすいことの怖さを自覚しておかなくてはいけないし、よく知らない相手を攻撃する前に立ち止まることが必要なのだと思う。

 

ここで話を戻して、どうすれば小児性愛者が生きやすくなるか。

最近Podcast番組の『ポケットに沼を』の中で「非実在青少年の人権」をテーマに話していた。

open.spotify.com

これはつまりアニメやCGの未成年キャラクターにおける性的な扱いについての話なのだが、はっきり言って僕自身が好んで見たことがないのでイメージできていない所も多々ある。

ただ可能性として言えるのは、そういうアニメがあることで実生活にも同様の衝動を起こしてしまう人がいるかもしれないし、逆にそういった衝動を抑えることにアニメの存在が役立っている場面があるのかもしれないということだ。

こういうものは公に置かれるというよりは、求めている人が探せばアクセスできるくらいのところにあるのが適切なんだから、これらを制作する人よりもわざわざ「こんなけしからんものがありました!」と大々的に引っ張り出す人の方がよほど困る存在なんじゃないかなと思ったりする。

 

結論としては、人を何かしら勝手な言葉で否定するのは安直だということだ。思い込みの正義を持ち出して他人の生活を犯すという意味では、そっちの方が怖いんだ。

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ファミレスのレジ横パン

1歳9か月の寿限無を連れてファミレスに行った。

それまで何度も行っている店でいつも通りベビーカーを中で預かってもらって、いつも通り席に案内してもらった。が、なんと

寿限無がレジ横から離れない!!

ファミレスのレジ横といえば子供の興味を惹くおもちゃが目白押し。そこで寿限無は「でんしゃ~!」「くるま!」「かっこいいね~」と完全に夢中になってしまい、席まで移動してくれないのだ。無理に抱え上げようとすると「キャー!!!!」という叫び声が店内に響き渡り、それもこちらを困らせる。

こんなとき、親としてどう振る舞うべきか悩む。
店員や他の客の通路の邪魔になるので泣き叫んでも無理やり席まで連れていくか、それとも本人が満足するまでおもちゃを見せておくか。
ここで2つポイントがある。まず1つはおもちゃの仕事をしている僕にとってそもそもレジ横のおもちゃに魅力がないことだ。安さと派手さだけが前面に出ていて、遊びの継続性や耐久性を感じられない。
2つ目はなるべく子供の意志を尊重したいということ。無理にその場を離して別のことに気が向くこともあるとは思うが、そういうことを続けて我慢する気持ちを育むにはまだ早すぎる月齢だ。
最終的に僕が傍について寿限無の一言ひとことに応答してあげることで「じゃ、お母さんのところに行こうか」と席に促すことができた。時間はかかるけどね。

メニューにはお子様セットがあった。これまでは持参していた離乳食を食べさせていたが、最近は食べられるものも増えてきていたので注文することにした。
しかし、なかなか来ない・・・。店員がお盆を持って近づいてくると寿限無はニコニコしているが、隣のテーブルに置かれてしまいがっかりしている。そのうち気持ちが途切れてしまい、立ち上がりたくなってきたところで一緒に歌を歌ったりして待つ。そんなことが続いて20分、ようやくお子様セットが来た。ちょっと長くないかい?そして同時に僕らの注文したセットも来たけど同時には食べられないのよ・・・。

そうして食事が終わり、お会計。やっぱりレジ横で足止めを食らう。最初よりも客が増えていたことと、思った以上に時間が遅くなってしまったことで、少々無理やりに寿限無をベビーカーに乗せてしまった。案の定大泣きするのでそのまま外へ。

帰宅して夫婦で出した結論としては「しばらくファミレスは行かなくていいかな」となった。寿限無が0歳の頃は「もう少し心も体も安定してから」と思って外食を敬遠していたが、いろんなことに興味が出てきて自分の力で手を伸ばしたり拒否を示したりできるようになってしまうと余計にこういう場所が遠のいてしまうのだなぁとわかってきた。

最後にひとつ、全国のファミレスに向けて訊いてみたいことがある。あのおもちゃ売り場はなぜあるのか?それほど売り上げに貢献するものでもないだろうし、子供がレジ周辺に留まることが望ましいとも思えない。仮に会計のついでに買うとしてもあの程度の駄玩具で子供の留飲を下げてほしくないし、子供を商売のだしにするような売り方に辟易する。

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スイスと比べるパン

NHKの特集記事を読んだ。

追跡!日本の食料備蓄 食の備えはどこに? | NHK | ビジネス特集 | 食料安全保障

食料不足の不安解消のための備蓄についての記事だが、この中に気になる文章があった。

 

スイスは、2017年に憲法食料安保条項を盛り込みました。

 

スイスは国民投票による憲法改正が多いということを一昨年学んだ。

食料安保条項についても調べてみたところ、どうやら2014年に発案され、3年かけて議論を深め、国民投票に至っているという。

方や戦後一度も憲法改正がなされていない日本。議論することすら否定的な政党もあるけど、別に「憲法=9条」ではない。時代と情勢と国民生活に照らし合わせて何が必要なのかを一人ひとりが考えていけることが大事だなと感じた。

https://www.lid.ch/fileadmin/lid/Presseseminar/Ishii_3.pdf

HARIBOのグミパン

1ヶ月ほど前、数年ぶりに大学時代のゼミの教授にメールを送った。もう僕のことなど覚えているはずもないのでかなり悩んで文面を構成し、勇気を出してメールを送信した。

すぐに返信があり、日程を合わせてオンラインでお話しすることが叶った。

近況報告をすると、大学時代に留学したドイツに今も仕事上の繋がりがあることと、今のおもちゃの仕事への考え方について「卒業後、そういう精神を持って働いていることが嬉しい」と言ってもらえた。

 

その話の流れで「ゼミの時にHARIBOのグミを配ったのを覚えてるか?」という話になった。

日本でもよく知られているHARIBOのグミ。何と言ってもあの硬さが特徴だ。日本の多くのグミの柔らかさと比べてHARIBOはかなり硬い。この硬さには、メーカーの「子供の咀嚼力を鍛える」という意図があるのだと教えてもらった。

 

この「咀嚼力」という言葉が僕の中で腑に落ちた。
これは単に「噛む力」のことだけを言っているのではなく、「物事を正しく理解する力」とも受け取れる気がした。

最近、少しでも難しさや長さを感じる本や作品は避けられる傾向にあり、それらをわかりやすく「嚙み砕いて」説明するものがあまりに増えているように思う。そういうものが必要な場合もあるだろうし役に立つけど、今はあまりに多い。そしてそれで「飲み込んだ」気になってしまって自分で「咀嚼」する機会が物凄く減っているように感じていた。

 

やっぱりこの「咀嚼力」はすぐに強くなるものでもないし、当然柔らかいものばかり食べていては落ちていく一方だ。

何もかもが柔らかく作られ簡単に飲み込めてしまう世の中に対するHARIBOのアンチテーゼを強く感じながらグミをもぐもぐしてみる。

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『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』パン

Netflixの映画『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』が公開された。

コッローディの原作が生まれ、ディズニー作品で広く長く知られるあの物語を、『パンズラビリンス』『シェイプオブウォーター』のデル・トロ監督が軽い作品に仕上げる訳がないと、1年以上前から公開を楽しみにしていた。

そこで僕は公開前に、1881年の原作『ピノッキオの冒険』を読み、1940年のディズニーのアニメ映画『ピノキオ』を観て、2022年のディズニーの実写版映画『ピノキオ』を観て、2019年のイタリア映画『ほんとうのピノッキオ』を観た。
いまや周囲の誰よりもこの作品について詳しい自信がある。

万全の予習をしたうえで『ギレルモ・デル・トロピノッキオ』を観て考えたことを書いていきたい。ネタバレあります。

 

 

 

結論から言うと、最高傑作だった!
原作の扱いづらい箇所を再解釈しつつ、改変されたディズニー版も活かしつつ、独自のメッセージ性を持たせるという、非常に難しいことを成し遂げていると感じた。

 

まず、ディズニー実写版にあった「ゼペットじいさんは息子を亡くしている」という設定。
ディズニー版では不自然なまでに長い独り言で悲しみを表現していたのを、デルトロ版ではじっくりとゼペットとカルロの生活を見せることで本当の親子の時間とその喪失を描いていたように思う。不慮の出来事によって子供を失うこの感情は子供を持つ全ての親の心に共感を生む。というか、僕自身が今1歳6カ月の子供を育てている身であるからこそ、この子を失ったらということをリアルに考えてしまうのだ。

 

次に、ピノッキオが死ぬ場面。ディズニーは描いていないが実は原作ではピノッキオは1度死ぬ。
これは作者のコッローディが連載を終わらせるために死なせたのだが、当時の読者である子どもたちの声によって連載を再開させるため再び生き返らせたと言われている。
その原作に出てくる「棺を運ぶ4羽のウサギ」がイタリア版に続いてデルトロ版でも描かれている。しかしデルトロはこの"一度死んで生き返る”設定を利用して、死の精霊から「人生に意味を持たせるのは儚さだ」というセリフを引き出すことでこれを物語の核に据えた。ここが秀逸だ。
この物語の中でピノッキオは複数回死ぬが、その度に死の精霊がかける言葉がとても良い。「あなたに永遠の命があっても、他の人の命には限りがある。いつが最期の時なのかは彼らが世を去るまでわからない」このセリフにドキッとする人は多いはずだ。

 

3つ目はやはり戦争。物語の中盤から後半にかけて戦争の影が大きくなる。これはもちろんデルトロ版のオリジナル。
よく見ると実は序盤のカルロがブランコを漕いでいるシーンから戦闘機が飛び交っていたり、街の看板など細かいところにファシズムが現れていたりする。キャンドルウィックも模範的ファシストとして敬礼のポーズをしている。
ありふれた生活風景の奥に戦争を感じさせるという演出で、デルトロと同じメキシコ人監督のアルフォンソ・キュアロンがアカデミー監督賞を獲ったNetflix映画『ROMA』を思い出す。是非見てもらいたい。
物語の後半からピノッキオは人形ショーに出演することで、イタリア軍プロパガンダに加担させられ、死なないことで兵士としての価値を見出される。
訓練施設が爆撃される一連のシーンで、キャンドルウィックは父親にペイント弾を撃ち込み、スパッツァトゥーラはヴォルペを倒す。弱き者たちの反抗心を示す重要な場面だったと思う。

 

個人的に衝撃だったのは、セバスチャン・j・クリケットがゼペットを叱るシーンだ。原作の物言うコオロギも、ディズニー版のジミニー・クリケットも基本的にピノッキオに対してしか意見しない。ピノッキオの良心という役割を与えられるからだ。しかしここでは一時の感情でピノッキオを「重荷」呼ばわりしてしまったゼペットを叱る。親が子に対してきつく言ってしまうことがあることは理解しつつ、しっかりと反省を促すのだ。
ちなみにこのピノッキオは初めこそはちゃめちゃだったものの、ゼペットのために働きに出てからはすっかり「良い子」になっている。これもディズニー実写版に近い気がする。

 

原作のピノッキオは大事な家族のために懸命に働くことで人間になり、ディズニーアニメ版では命がけでゼペットを助けたことを評価されて人間になり、ディズニー実写版は「人間になったともいわれています」という曖昧さを残してエンディングを迎える。
それに比べてこのデルトロ版は、話の軸となった死の精霊の言葉通り、死ぬことがある=尊い存在という点において人間となったのだ。

 

なによりも絶対に触れておかなくてはならないのが、ストップモーションという撮影方法についてだ。この「人形に命が吹き込まれる」という物語を撮影するのに、本当に人形に命を吹き込んでいるというのが素晴らしい!見ていて全く違和感がないくらいスムーズな動きをしている上に、物語の構成上関係ないような細かい動きまで撮影していることにこだわりを感じる。
ピノッキオの舞台裏」というドキュメンタリーでは、より動きをリアルにするために躓きを入れているというので本当に驚かされる。どんだけ苦労したいんだよ!

 

感じたこと、言いたいこと、気づいたことをだらだらと書き連ねてしまったけど、本当に素晴らしい作品だった。感謝。

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