ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

新聞パン

昔から新聞を読むのが好きだった。

不思議なことに、周りからよく「新聞が読めない」と言われるので、僕の新聞歴を考えてみた。

 

子供の頃は「新聞=テレビ欄」だった。毎日テレビ番組表をチェックしては面白そうな番組を探していた。

 

次に見たのは4コマ漫画やスポーツ欄だ。スポーツといっても僕が好きな野球とテニスの結果だけをただ毎日追っていた。

 

次第にその途中のページの記事も目につくようになった。

忘れもしない衝撃的な記事がある。

80歳を越えた将棋のプロ棋士が、2手連続で打ってしまい反則負けとなった。という記事だ。

もうボケてんじゃん!と笑い転げた。

世の中のどこに面白い出来事があるかわからない。そんな気持ちでとにかく全てのページを開くようになった。

 

毎日毎日、全てのページをめくり続ける。

すると自然に自分の興味関心のある話題は目に入ってくる。

さらに、テレビやラジオ、本などで見たり聞いたり知ったことが紙面上で繋がってくる。数日前に読んだ記事の続報を知ることもある。

すると読みたい記事がどんどん増えていき、かける時間も増えていった。

 

ある時は読めなかった1週間分を読む為だけに図書館に入り浸っていたことさえあった。

 

だがこの頃はまだ、新聞各社それぞれの特徴があるということを知らなかった。

ただ実家で取っている新聞を、一人暮らししてからも読み続けていただけだ。

 

この2、3年で僕自身のニュースの見方が大きく変わった。

ただ受け取るだけではなく、それはどういうことか、どうしてなのか、これからどうすべきか、など様々な角度で考えて自分なりの意見を持つことが楽しくなってきた。

 

そして最近はいくつかの新聞を読み比べている。1面に載った同じ題材の記事でもこんなに書き方が違うのか、と気づくことができた。

時間はかかるが読み比べは面白い。書いてあることだけでなく、書いていないことに注目することも大事だ。

 

友人は「偏りたくないから」と新聞を読まないと言っていたが、違う気がする。

いろんな情報を得て初めて自分の考えが生まれてくるんだと思う。

ちょうど食事と同じで、肉ばかりでも米ばかりでも良くない。バランスよく栄養を摂取することで健康に生きられる訳で。その中で好きな食べ物はあっていいし、それが変わってもいい。だけど偏食はダメ。絶食もダメ。

 

結論としては、まずはどんな新聞でもいいから全部のページを開くことをオススメしたい。

必ず目に入る記事はあるはずで、それを続けるだけで読む記事が増えるはずだ。

そして少しずつ考えることが大切だと思う。

印鑑パン

印鑑がとてつもなくめんどくさい。

 

必要な時に限って手元になかったりする。

 

ドイツでは全てサインで済んだ。

電子パネルに指先でなぞるだけで完了したこともある。

 

印鑑文化って日本だけなんだろうか。

多分歴史的には韓国や中国にもあっただろうけど、電子決済が普及したりする過程でなくなっていってるのも確かだろうな。

 

たとえ印鑑があったとしても、どこもかしこも「金」「金」「金」「金」「金」「金」「金」

ばかりで役に立たなそうだなぁ。

あーんパン

NHKバリバラの重度障害者の回を見た。

 

正直言って全く知らない世界だし、自分が適当な対応ができる自信は全くない。

だからこそ少しでも知ることが大切なんだと思う。

 

バリバラドラマでおなじみの横田さんが施設での食事を手伝う場面があった。

横田さんはスプーンを口に運ぶ際、ごく自然に「あーん」と言い、それを注意された。

相手は障害者と言えども大人なので、そういった子供扱いは失礼とのことだった。

確かに、老人ホームなどでもそういった言葉を使わないというのは聞いたことがあった。

 

ここで僕は疑問に思う。

子供に対して「あーん」と言うのは適切なんだろうか?

すぐにはわからなくても「口を開けてね」と毎回言うことで言葉を覚えてくるものだと思うし、その一方で大人が「あーん」と言えばそれを真似して口を開けてくれるものかもしれないと思った。

 

実際に知り合いの保育士に訊ねたところ、

確かに正しい日本語を聞かせることは大切だが、「あーん」は言葉の意味がわからない時に助けになるステップの言葉として大切。

と教わった。

車のことを「ブーブー」と言うのも同じだと言う。

 

僕らも大人になるに連れて使う言葉が変わってきている。乳児の言葉はその前段階として必要なのだ。

ただし、使い方にも気をつけないといけない。大人が無理やり食べさせる為の「あーん」ではなく、子供の食べたい気持ちを尊重した「あーん」の仕方を工夫しようと教わった。

 

バリバラを見ると毎回放射状にいろんなことを考えさせられる。とても良い番組。

工業生産パン

最近、ドイツの森の幼稚園に関する本を読んでいる。

 

その中に気になる表現があった。

 

「工業生産された多くの遊具は、必要のないものである」

 

必要ない?

確かに森という自然を利用して遊ぶことは子供にあらゆることを教える機会とは思うが、

そこまで言い切るとはおもちゃを扱う身として聞き逃せない。

 

この本ではこの後、工業生産の遊具と自然物の特徴を比べ、いかに自然物が子供に作用するかを示してくれている。

 

例えば匂い。

工業生産されたおもちゃに匂いはない(あるとすれば身体に有害なもの)が、自然物には材料や種類によって異なる匂いがある。

このことで子供たちは材料には特有の匂いがあることを知ることができる。

 

上記のようなことがいくつか書かれている。

 

その中で僕が気になったのは色について

 

おもちゃは人工物であるため、色と材料が一致していないが、自然物には特有の色があり、グラデーションも豊かである。

 

と書かれたところ。

しかし僕が思うに、人工のおもちゃだからこそ、赤や青や緑や黄色といった基本色を身につけることができるのではないだろうか。

その上で自然の色を見て、これは何色ということがわかってくると思う。

最初から自然のグラデーションを見ても、頭の中の整理すべき場所がわからず困るのではないか。

 

もう一つ気になった箇所がある。

 

工業製品は安全基準に従ってテストされる。

自然物は安全規格がない。

従って子供の責任ある行動を促す。

 

と書いてあるのだ。

確かに安全が保証されていない遊びの中で、自分は何をしていいか、またはしてはいけないかを考えて行動する体験ができるのは必要だと思う。

しかしその一方で、何でも口に入れる乳児などにとっては、確実な安全性のあるおもちゃで好きに遊ぶことも必要だと思うのだ。

どっちも大切!

 

僕は子供の頃、高いところから飛び降りて足を怪我したことがある。

家族は「バカだねぇ!」と笑っていたが、僕はそうやって経験値としてあの高さから飛び降りるのは危ないと知ることができたのだ。

痛みや苦しみから学ぶことは大人になってからもある。身体を壊したり、有害なもの意外は試してみなければわからないのかもしれない。

 

この本を読みながら考えてメモしているのがとても楽しい。

欠損品パン

2年前にドイツの積み木の工場を見学させてもらった。

 

「出来ないことよりも出来ることに注目する」

「施設にいるよりも仕事をすることで社会の一員となれる」

という考えから障害を持つ方々を積極的に雇っているということを教わった。

 

この考えは素敵だなと思った後で、気になることがあった。

 

工場の大きな机で3人の従業員が作業をしていた。

完成した積み木が規格に合っているかを専用の器具で測り、「検査済」と「規格外」の箱に分ける作業だった。

 

僕はそれを見て、

障害を持つ人を見捨てず雇う会社で、欠損品の積み木が選り分けられているように感じてしまった。

 

もちろん、高品質な製品を販売することで、会社の評価も、障害者の評価も良くなるというのはわかっている。

 

「物と人は違う」という意見もあるだろうが、完璧な物を求める社会は結局完璧な人を求めてしまうのではないかと思ってしまう。

 

僕の職場でも入荷した商品の検品を欠かさずやっている。そして欠損品を見る度に同じことを考えてしまう。

 

そしてふと、子供の頃の自分のことを思い出した。

遊んでいた積み木やブロックの中に、たまに欠けたものや色の違うものが混ざっていた。

そして子供の頃の僕はそれに何かしら意味や役割を持たせ、遊びに必要なパーツとしていたのだった。

 

うちのパートさんも欠損品をビンに詰めて子供にあげると、それを「宝物」と呼んで遊んでいたという。

 

チャーリーとチョコレート工場でもお父さんが不良品を持って帰るシーンがある。

 

売る側の人間がこういうことを言ってはいけないとわかっていながら、あえて言う。

不完全なパーツがあってもいいじゃないか。

世の中ってそういうものだし、そのパーツにはそのパーツに託される役割があったりする。

 

決して「何でもいい」という訳ではない。

製品に対する明確な目標があり、それを製造する過程でたまたま生まれた欠損品の場合という話だ。省く以外の方法を考えてみたい。

ゼクシィパン

電車の中でゼクシィの広告を見た。

カップルはこういうのを見て結婚に踏み切るのかと考えていると、隅っこに「リクルート」と書いてあった。

怖くなった。

 

リクルートのサイトを調べてみた。

 

高校生の進路指導

大学生や社会人向けの資格情報

アルバイトや就職情報

転職情報

中古車情報

そして結婚情報

 

長年にわたり定着した日本人の典型的な生き方がそのまんまここにある気がする。

 

リクルートでは人生の様々な場面においての

「みんなはこうやってるよ〜」

が沢山紹介されている。

 

そういった情報が増えていくにつれて、

「こういうのが流行ってる」から

「こうするのが当たり前」になり

「これじゃないと恥をかく」に至る。

 

僕は「みんなと同じ」がそこに提示されていることが怖くなった。

 

価値観なんて十人十色で当たり前で、多様性を認める社会であろうとする中で、こんなにも堂々と“前へ倣え”を推進しているのが不思議に思えてきた。

 

人生の岐路で、どうしていいかわからないと悩む人にヒントを与える役割なのだと思うが、あえて僕は言いたい

 

自分で決めろ!

自分が良いと思う方を選べ!

他人の意見に惑わされるな!

 

僕自身、誰かの意見に合わせたせいでずっと後悔していることがあるし、

自分の意見を通したことでどんな困難も乗り越えてこれたと思っている。

 

誰にも決められずに生きていこう。

これは自分への戒めでもある。