ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

接客パン

最近、人は相手の仕事に期待しすぎているんじゃないかと考える。

 

飲食店でも配達にしても、役所や病院の話でも当てはまるが、ほんの少しでも対応が悪いと文句を言ったりネットに書き込んだりしてしまう。

 

そうやって評判が落ちることを恐れて仕事をする側も縮こまってしまったりもする。

 

その一方で多くの人は「神対応」「神接客」みたいなエピソードが好きだと思う。

ディズニーランドのスタッフが気を利かせてくれた!みたいな話を聞くと、

流石ディズニーだね!という反応をするだろう。

 

働く上で、お客様目線になってより良い仕事を目指すことは重要だと思う。

しかし消費者側が常にディズニーランドのような対応をしてもらえると思い込むことは危険な気もする。

 

みんな、一旦自分が働く立場になることを思い出して欲しい。それも初めての職場、初バイトの日の感覚で。

最初から完璧にできた訳ではないと思う。何度も小さい失敗を繰り返してコツを掴んだり、より良い方法を見つけてきたはずだ。

 

ましてや今、日本は外国人労働者に頼らざるを得ない現状だ。たどたどしい日本語であっても一生懸命に仕事を覚え、こなしている。

 

そんな相手のキャリアや背景までわからない状態で、「あそこの店員はダメだ」などと決めつけていいはずがない。

 

ディズニーランドの完璧な接客を褒めるより、

残念な接客でも意外と困らなかったよねみたいな話が増える方が気持ちが楽だと思う。

 

世の中の接客に対する期待感が高まりすぎているように思う。

臭い物に蓋パン

有名人の不祥事が世間を騒がせた時、必ずこんな声を聞くようになった。

 

「もうあの作品が見られない」

 

いつからドラマや映画などその有名人に関連する作品を自粛する流れが始まったんだろう。

 

ハリウッドの名プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインは性的暴行事件で逮捕されたが、彼が手がけたいくつもの有名映画の存在に何ら影響を与えていない。

 

日本だけが謎の「臭いものには蓋」という感覚で、何もかもなかったことのようにしている。

そして多くの人はそれを受け入れて、「残念だ」とか言っている。

 

今回逮捕されたピエール瀧は、音楽でもドラマでも映画でも活躍してきた人物で、それら全てに蓋をするというのは馬鹿げていると思うほど実績があまりに多い。

 

これを機に一度考え直してはどうか?

過去の作品を人物と切り離して見ることはできないだろうか。

素晴らしい作品が急に素晴らしくなくなることはないはずだ。

 

長い年月積み上げてきた日本の文化を消すことは、本人の罪とは全く別の話だ。

 

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ここからは現実味のない勝手な意見。

怒る人もいると思うけどアイデアとして。

 

何でも蓋をしてしまう社会に対して、作品を後世に残す為の作戦として、

 

警察は彼を逮捕するが、世間への発表は

ピエール瀧 急逝」

なんらかの病気だったことだけを公表し、後は謎のままにしておくのはどうだろうか。

存命の人物をそんな扱いにすることは気が引けるが、今のこの制裁社会では復帰の道も難しいように思う。であれば過去の実績を大きく残すという意味で考えた本当に身勝手なアイデアだ。

もちろんどこかで生存説は出るだろうが、ひっそりと回復に努めることができるような気もする。

 

 

 

さらに雑記

 

僕が初めて彼を知ったのはリリー・フランキーが描いた「おでんくん」というアニメだった。

そのアニメの中で意地悪なジャガイモのキャラクターの声優をしていたことを思い出した。

ツイッターで検索してみると、

「もうおでんくん見れないじゃん。好きだったのに」と書かれていた。

 

もう放送してねぇよ!

本当に好きで今も見たいならDVDで見ればいいじゃん!

 

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じゃないですけどパン

ここ2年くらい気になってる言葉がある。

 

「〜じゃないですけど」

 

文字通り、文脈を否定する時に使っているのは気にならないが、「〜」の部分を和らげているように感じることがある。

 

多分「〜というほどではないが」の意味合いで使われているんだと思うが、

 

「酔ってる訳じゃないですけど、ちょっとふらっとしますね」

 

…酔ってるじゃん!

 

ストレートに「酔ってる」と言うよりも少し和らげている感覚なんだろうか。

 

はっきりと言わず「〜っぽい」「〜的」といった婉曲表現を好む日本人の性格に合った言葉なのかもしれない。

 

ただ、あまりに公の場でこれを連発して話されると、ちょっと気になってしまう。

立ち往生パン

信号のない交差点や駐車場に入る車が左折する時、基本的に歩行者の通行が優先される、というのはわかってる。

 

けど、その歩行者がずーっと途切れなくて左折したい車がそれを待ってることでその後ろに渋滞が出来てる場合はちょっと考えてみる必要がありそう。

 

そもそも、優先される歩行者って

車が来た時に歩いてた人じゃないの?

それに続いて後から来た人にその権利あるの?

と疑問に思う。

後から来た人の更に後から来た人とか現れて、ただ止まってる車を本当によく見かける。

 

僕は自分が後から来た立場だと思ったらなるべく立ち止まって運転手さんにどうぞと合図を送ることにしている。

そんな時に僕の後ろから来た人が車の前に横切ると「何見てたんだよ!?」って思う。

 

そういう人に一瞬イラッとするけど、視野が狭かったり耳が聴こえなかったり、様々な要因で気づきにくかったのかな、そういう人なのかなって思うことにする。

マタニティマークパン

電車でのこと。座っていた女性が一人の女性に声をかけて席を譲っていた。

譲られた女性はカバンにマタニティマークをつけていた。

車内でそのマークに気づいたのはその人だけで、ほとんどの乗客はスマホを見ているか寝ているだけだった。

席を譲った女性は吊革に捕まって立っていた。


この様子を見て、つくづく「気づく人は辛いなぁ」って思ってしまう。

 

少しだけ掘り下げると


1.マタニティマークが何かという“知識がある”
2.目の前にそのマークがあることに“気づく”
3.即座に声をかける“行動力がある”

 

2がなければ3は起こりえないし
1がなければ2も起こりえない。

 

困っている人はどこにでも沢山いる。
障害を持った人、災害に遭った人、
事件事故に巻き込まれた人、外国からやってきた人、お金がない人、仕事がない人、元気がない人、もっと大きいことからもっと小さなことまで、僕が思いつかないところで困っている人がいるはず。
だけど知識がないとそういう人がいることに気づくことすらできない

結果として「自分さえ良ければいい」考えになってしまう。だからもっと勉強して本読んで知識を増やして困ってる人のことを知らなきゃいけないんだって思う。

 

知識があっても気づけなければ意味はない。

電車の乗客のほとんどはマタニティマークくらいは知ってたはず。でも気づいたのはあの女性だけだった。

もしかするとあの人が妊婦の立場を経験したことがあったから気づけたのかもしれないが、それにしてもみんなもう少しだけ周りを気にした方がいいと思う。自分だけの世界じゃないんだから。
とはいえ全部に気づくことは不可能だから、ほんの少しずつ、自分の周りに関して『気づく率』を高めていけたらいい。自分の行動で誰かが困るんじゃないか、または誰かが助かるんじゃないか、そうやって意識していけたらいいなと思う。自戒の念も込めて。

 

そうやって気づけても行動しなければ何も変わらない。
よくSNSで流れてくる「感動のエピソード」とか「神対応!」とか「名言」とかに対して、
「いいね」「涙が出てきました」「シェアさせて頂きます」とか言ってる人を見るが、自分がやればいいじゃんって思う。
知り合いでもない人の行動を称賛するのが流行ってるけど、目の前に困ってる人がいてもスマホの画面見てたら行動なんてできっこない。


じゃあお前はどうなんだって言われるかもしれないけど、僕のことは、ま、気にしないで。

エストニアパン①

以前行ったエストニア一人旅を絡めて様々なことを書いてみる。

 

まず、エストニアって何処?って必ず聞かれるくらい認知度が低い。

バルト三国?」と言える人はたまにいるけど、その三国が言えなかったりする。

 

高校の世界史の先生から教わった覚え方がある。

バルト三国とその北に位置するフィンランドを縦に並べ、

 

フィンランド

エストニア

ラトビア

リトアニア

 

頭文字を取って「フェラーリ」と。

もう覚えたはず。テストに出るぞ〜。

 

そんなエストニアの首都はタリン。

Googleで「エストニア タリン」で画像検索するとあなたはもうここに行きたくて仕方なくなるはず!僕もそうだった。

 

次に、エストニアを調べて出てきたキーワードが「IT大国」。そもそも聞き慣れないエストニアという国においてITが優れているイメージはあまりないと思う。

しかしこのタリンという街からSkypeが生まれたと聞くだけでその印象は一変する。

更に日本のマイナンバーカードのような身分証明制度が既に浸透していたり、小学校でプログラミングの授業があるというので本当にIT大国なのだろう。

 

だが僕は一つの疑問を感じていた。

 

今は東京に住んでいるが地元はかなりの田舎。そんなに地元愛が強い訳ではないが年に数回実家に帰る。

東京という街はすさまじいスピードで変わっていく。上京した初日に食べた蕎麦屋はなくなっているし、先月までなかったマンションがいつの間にか建っている。最寄駅のホームも姿が変わったし、都知事も交代した。次から次へと新しいものが生まれる。

 

一方僕はある日地元に帰った。隣の県に用事があったのでそこから電車に乗って地元の駅に降りた。しかしその駅ではICカードが使えなかった

僕の地元は確かに田舎だが、その駅は決してローカル線ではなく近隣の県をいくつか跨ぐ路線の中の一駅で、1日の利用者はのべ2000人を超えるくらいの規模だ。そんな駅でICカードがまだ使えないということに驚きを隠せない。

おそらく、この駅の利用者の多くは駅員に“見せる”タイプの定期券を持っていて、毎日利用する人はそれに不便を感じていないし、たまにしか利用しないほんの少数の人が切符を買う程度なのだ。改札を設置する必要がない。

実家に着く。家の周りは10年以上前から何も変わらない。近所の人たちも変わらない、歳をとったようにすら見えない。家族の考え方も変わらない。どこにでも昔の思い出が転がり続けている。

 

そう、2020年の五輪に向けて日々変わりゆく東京と、僕が住み始めた1998年頃からほとんど何も変わらない地元。感覚としてその差は広がりつつある。

 

ではエストニアはどうなんだろう?

世界規模のIT大国として注目を集めるこの国の田舎はどうなんだろう?

首都タリンとのギャップはあるのか?

僕はそれを肌で感じたくてエストニアに行くことにした。

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おやつパン

おやつって美味しい。

甘いものもついつい食べちゃうし、しょっぱいものもついつい食べちゃう。

 

当然だけどおやつばかり食べていると健康には良くない。しっかりと栄養バランスのとれた食事が必要なのはみんな知ってる。

 

同じようなことは子供に与えるおもちゃにも言えると思う。

お店に行くといろんなおもちゃがある。触ると音が鳴ったり、センサーで起動したり、人気のキャラクターが描かれていたり。

子供はそういうおもちゃに反応を示す。刺激が強いから。

だけどそれってなんだかおやつっぽい。

そういうおもちゃもあっていいけど、静かに遊んだり、硬かったり柔らかかったり、積み上げたり眺めてみたり、子供にいろんな感覚を体験させるおもちゃを与えてほしい。

バランスよく食事を摂るのと同じ。

 

更に同じようなことが大人にとっても言えると思う。

スマホを開けば芸能人の不倫とか、タレントの噂話とか、「◯◯すべき5つのこと」みたいな記事ばかりが目についてついつい読んでしまっていないだろうか。

でもそれってやっぱりおやつっぽい。

貧困、障害、被災、虐待、外交、それだけでなく世の中にはここに書ききれないほど様々な社会問題が存在している。

「自分は困ってないし」ではなく、「自分のせいで誰かが困ってるかも」「自分にも何か出来ることがあるだろう」と考えなくてはならない。

「知らない」は罪だ。

いろんなニュースを見て、知って、そして考える。

いろんな食材をよく噛んで飲み込むのと同じ。

 

おやつが悪いとは思わない。美味しいもん。

だからといって食事を蔑ろにしてはいけない。

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