2年前にドイツの積み木の工場を見学させてもらった。
「出来ないことよりも出来ることに注目する」
「施設にいるよりも仕事をすることで社会の一員となれる」
という考えから障害を持つ方々を積極的に雇っているということを教わった。
この考えは素敵だなと思った後で、気になることがあった。
工場の大きな机で3人の従業員が作業をしていた。
完成した積み木が規格に合っているかを専用の器具で測り、「検査済」と「規格外」の箱に分ける作業だった。
僕はそれを見て、
障害を持つ人を見捨てず雇う会社で、欠損品の積み木が選り分けられているように感じてしまった。
もちろん、高品質な製品を販売することで、会社の評価も、障害者の評価も良くなるというのはわかっている。
「物と人は違う」という意見もあるだろうが、完璧な物を求める社会は結局完璧な人を求めてしまうのではないかと思ってしまう。
僕の職場でも入荷した商品の検品を欠かさずやっている。そして欠損品を見る度に同じことを考えてしまう。
そしてふと、子供の頃の自分のことを思い出した。
遊んでいた積み木やブロックの中に、たまに欠けたものや色の違うものが混ざっていた。
そして子供の頃の僕はそれに何かしら意味や役割を持たせ、遊びに必要なパーツとしていたのだった。
うちのパートさんも欠損品をビンに詰めて子供にあげると、それを「宝物」と呼んで遊んでいたという。
チャーリーとチョコレート工場でもお父さんが不良品を持って帰るシーンがある。
売る側の人間がこういうことを言ってはいけないとわかっていながら、あえて言う。
不完全なパーツがあってもいいじゃないか。
世の中ってそういうものだし、そのパーツにはそのパーツに託される役割があったりする。
決して「何でもいい」という訳ではない。
製品に対する明確な目標があり、それを製造する過程でたまたま生まれた欠損品の場合という話だ。省く以外の方法を考えてみたい。