上原善広の「一投に賭ける」を読んだ。
人生を“やり投げ”に捧げたと言っても過言ではない、いやそれでもまだ言葉が足りないほど本気で打ち込んだ男、溝口和洋の競技人生を何故か一人称で書いた作品だ。
どんな人がざっくり言うと、
朝から晩まで常にやり投げのことを考え、試行錯誤を繰り返し、時には常識にも逆らい、ついに世界記録を出すが幻の記録となってしまった人物だ。
はっきり言って日本人は大好きだと思う、こういう一つの競技を貫徹して結果を残した人物とその物語が。
しかし本当にそうだろうか。
指導者も付けず独自の理論でトレーニングを積み重ね、人の言うことを一切聞かない。
誰もが“協調性のない奴だ”と言うだろう。
国民の期待を背負ったソウル五輪では予選落ち。実際に当時の世論は「期待外れだ」と彼を罵ったという。
そう、僕らは自分達の思い描く物語から少しでも外れた者に対し簡単に掌を返してしまうところがある。とても残念だ。
実際に彼はそういう日本の雰囲気を嫌い、正当に評価してくれる西洋の大会を好んでいた。
そして先程書いたように、彼は常に常識を疑い続けてきた。
彼はとにかく何でも実践してから考える。そうしてこれまでの常識を覆すアイデアを次々と生み出してきた。
今では当たり前となっている、左右異なる靴を履いて競技に挑むことを発明したのも溝口和洋だ。
この姿勢は自分への教訓になる。
日頃、当たり前だと思っていること、常識だと思い込んでいることを疑ってみることを忘れてはいけない。
しかし、何でも疑っていては効率が悪い。
学問の多くは先人たちの思考の上に次の世代の思考が積み重ねられていくものだと思っている。
引退後、溝口和洋は自分が得たものを惜しげもなく室伏広治など後輩たちに伝えたという。
一から見直すことも、上に積み上げることもどちらも大切だ。
彼がやり投げに捧げた人生を語り尽くすことで、人はどう生きるべきかが見えてくる。
この本が一人称で書かれた理由はここにある。