親とよく揉める。
それは親のする話が全て「普通は」「みんなは」「これが常識」「これが基本」で始まるから。
「普通はこうするものだからこうしなさい」
「みんなはこうしてるから」
その話の中に“僕”はいない。
“僕”がどうしたいか、という視点が欠けている。
子供の頃からそう。
「みんなやってるから」と部活を勧められた。
好きだったマイナーバンドも「そんなの誰も知らない」と笑われた。
とにかく「みんなに合わせなさい」と教えられてきた。
今になってようやくわかる。
「みんな」なんて人は存在しないし、「常識」なんてものは時代や環境と共に変化する。
大切なのは自分が今どうしたいか?だということ。
「普通」がダメだと言いたい訳じゃない。
普通一般を知ることは大切、だけど自分がそれと同じものを選ぶ必要はない。
もちろんワガママが良いというのも違う。
他人に迷惑をかけるような好き勝手をしていいのではなく、あくまで自分の人生を自分の責任で生きるって話。
ここ数年でようやくこう考えられるようになった。
自分の意思で決めたことに関しては、それなりに結果に納得している。
それでもまだ親は「普通」にこだわる。
ついに先日、僕のことを「普通ではない」と判断した結果こんなことを言ってきた。
「アスペルガーなのでは?」
「診断してもらったら?」
「こっちもどちらで対応すればいいか悩む」
呆れた…。
人は自分と違うものがあると不安になる。
その不安を解消するために名前をつける。
「普通」って箱からはみ出たから今度は「アスペルガー」って箱を用意しただけじゃないか。
まだ“僕”を見ていない。
あくまでもジャンル分けに固執している。
もし仮に僕がアスペルガーの診断を受けた場合、アスペルガーの人としての対応をするだけでしょ。
その中でアスペルガーの事例から外れた言動があったら「お前のそれはアスペルガーと違う」って言い出すのかな。馬鹿馬鹿しい。
アスペルガーかどうかで対応を変えるような人が信用できる筈がない。
障害があろうがなかろうが“僕”を“僕”として見てくれる人と一緒にいたい。
そもそも、病名なんてのは医者がその専門知識をもって理解するためのものでいい。一般化する必要なんてないのでは?と思ってる。
家族や周囲の人間にできることは、病気を理解することじゃなく、その人自身を理解することじゃないだろうか?
名前をつけることでその人自身が見てもらえなくなるならそんなものはあってはいけないとすら思う。
レニーブルースの有名な言葉がある。
I’m not a comedian, I am Lenny Bruce.
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