堀潤の著書『わたしは分断を許さない』を読んでいる。
昨年から香港で続く警察と民主派市民との対立は様々な分断を生んでいる。
昨年末の講演でも聞かせてもらったが、改めて本書を読むと考えさせられる点が多い。
いつも思うことだが、香港で起きているデモを他人事のように扱うことはできない。
逃亡犯条例に起因するそのデモには多くの若者が参加しているという。その行動はやはり自分達の権利を奪われてはいけないという信念から来ているものだろう。
その他フランスやスペインなど様々な国で権利を主張するデモが行われている。
これを“凄いことだ”と思っている僕自身、何か違う先入観を持っているのかもしれない。
そう、日本でも国会前や沖縄の名護市辺野古で抗議活動をしている人達がいる。
ただ、多くの国民がそういう光景を“ヤバイ人”と決め付け、その主張に耳を貸さず無いものとして扱っているような気がする。
これはデモや抗議活動を通して自分達の主張を発言するという権利があることを教わってこなかったことが大きな原因だと思う。
僕自身、子供の頃に疑問を持ったり反発したりした場面で大人達から「そういうものだ」「大人に逆らうな」とだけ言われ、十分な説明をされないうちにいつの間にか発言する前に諦める癖がついたのだと今になって実感する。
けれども、昨日挙げた『レ・ミゼラブル』や以前ドイツで見たデモ活動のように、ヨーロッパには自分達の権利を自分達で獲得してきた歴史があり、その下地が次の世代の行動源になっていることがわかる。
残念ながら今の日本人の心の底にはその下地がない。かつてはあったかもしれないが、現代ではほとんど消えかかっている。
デモをする人達に向けて「文句があるなら選挙に行け」という定型文が散見される。当然選挙も社会を変える重要な手段だが、それだけじゃないはず。
「デモ」という言葉は「デモンストレーション」の略だけど、ここでは敢えてこう言い換える。「デモクラシー」と。
だからこそ今の僕らが日本の民主主義の下地を作っていかないといけないのではないだろうか。