ルールや決まり・規則を作るということに疑問を感じるようになってきた。
もちろん人類はルールを作ることで協力し、会ったこともない人ともうまく関わることができるようになっていった。
例えば法律によって犯罪を取り締まるようにしたり、道路標識で交通事故を減らすようにしたり、お寺や教会に通う宗教文化もそうだろう。
つまり決め事を明文化して共有することは人類の大発明だと言える。
だけど一方で現代ではこういったことが起こるようになってきた。
「LGBTの差別禁止条例」がむしろさらなる差別を招くという矛盾 現実社会には「圧倒的解決策」はない | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
LGBTに対する差別をなくそうという一見するとポジティブに多様性を受け容れる社会への一歩とも受け取れるこの条例が、逆に自分は違反したくないから関わらないようにしようというネガティブな思いを生んでしまい受け容れるどころかむしろ距離を取るような流れになることが懸念されている。
この記事では障害者に対する規則についても同じことが起こっていると指摘している。
チームラボの猪子さんが2015年時点でのインタビューでこう話している。
ルールを増やし、その高度なルールをこなせる教養を持った人が完璧にこなしているのが素晴らしい社会、みたいな像が日本には根本的にあって、それは間違ってるんじゃないかと思う。
2020年、外国人がたくさんやって来る。そのとき、当たり前だけど、海外の人は日本の細かい高度なルールを守れない。だいたい今いる場所が何区かなんて僕すらわからないし。それに対して「外国人はマナーが悪い!」っていう勘違いな批判をする日本人が増え、外国人は「日本人は外国人が嫌いな排他的な国だ」と思う。このままだと、外国人は日本を嫌いになり、日本人は外国人をより嫌いになる悪循環のきっかけになる気がするんだよね。それを防ぐためにも、制度のデザインをすごく直感的でシンプルに、ルールがわからなくても迷惑をかけない社会に設計することは必要だと思う。
なんでもルール化することが危険に思えてきた。
例えば駅のエスカレーターにはほとんど「2列になって乗ってください」「歩かず立ち止まって乗ってください」と書かれているのに、実際にはみんな片側に列を作って乗っている。2列になって立っていようものなら後ろから邪魔だよと言われてしまうこともある。
そう、日本には「書いてあるルール」と「共有しているルール」が違っている場面も沢山あるのだ。そりゃ外国人には無理だろう。
誰もが暮らしやすい社会にする為に新しいルールを作ってしまいがちなんだけど、実際はそれが余計に複雑な事態を生むのかもしれない。
身の回りでもルールや規則があることで誰か困ってないか、また新しく作ることが本当に改善と言えるのか、そしてもっとシンプルなデザインがあるんじゃないか、よく考えてみる必要がある。