ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

成長の道筋パン

小学生になると漢字を習う。

僕の名字は比較的簡単な漢字だから1年生で習ってからはすぐ漢字で書くようになった。一方で名前の漢字は難しいのでひらがなで書いていた。いつしか習ってない漢字は書かないものだと思い込むようになり、名前の漢字2文字の片方だけ漢字でもう片方はひらがなというアンバランスな書き方をした時期もあったように思う。例えば「たなかまさひろ」が「田中まさ大」みたいな字面になる。

 

しかも僕の名前は常用漢字ではないため、実は高校でも習うことがない。多分小学校高学年くらいから自然と書くようになってはいたけど、習わないと使ってはいけないという思い込みはどこか身体に染み込んでいた。

それは大人になってからも続き、テニスのレッスンでスライスショットについてまだ教えてもらっていないから使わない、と考えたこともあった。我ながら馬鹿馬鹿しい思い込みに支配されていることが恥ずかしい。

 

結論を言うと、例え習ってなくても知っているなら使った方がいいに決まっている。

習ってない漢字でも書けるなら書いた方が伝わるし、スライスショットでも使えばラリーは続く。

 

どうしてこんなことを考えたかというと、赤ちゃんの「発達が遅い」という言葉が引っかかったからだ。

他の子と比べて二足歩行できるのが遅いとか、乳離れが遅いとか、周囲の大人はどうしても「遅い」ことに焦りと不安を感じてしまう。

 

だけど本当のところ、人間の成長なんてそれぞれ違う。それは遺伝子による差もあれば外部環境による差もある。それを少ない判例と比べて早いとか遅いとか言ってしまうべきではない。

 

同様に、かけ算の九九は2年生からとか、歴史の授業は5年生からとかいったカリキュラムは、単に文科省が勝手に決めた学校教育のための指針なんだとわかっておきたい。

つまりまだ習ってなくても織田信長を知っていたっていいし、逆に言えばみんなが九九を覚えて自分だけまだ上手く理解できてないということだって悪いことじゃない。

 

歳をとってからプログラミングを習得した人もいるし、大学に通い直す人もいる。

 

人間の成長に「まだできない」や「もうできる」なんて言葉は要らない。この道筋は一本道じゃないのだから。

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