気になっていた『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだ。
以前読んだ『みえるとか、みえないとか』という絵本がある。
この絵本は、男の子が宇宙人と出会い、自分がいつも当たり前にしていることを宇宙人はできなかったり、逆に宇宙人の当たり前の生活が男の子にはできなかったりするという「違い」に気づいていくというお話だ。
この絵本の制作にあたって「そうだん」という役割で参加していたのが『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の著者である伊藤亜紗さんだ。
この本はまず「視覚障害」というものについての認識を改めてくれる。
一般的に「視覚障害」はつまり「目が見えていない」ということなので、「4本脚の椅子の1本が欠けている状態」をイメージする人が多いと思う。
しかし実際は「3本の脚で立っている椅子」のイメージが正しいとか。
つまり「視力」以外の”脚”でちゃんと生活が成り立っているのだ。
それは例えば耳だったりもする。
このNHKの特集はコロナ禍を迎えて視覚障害者が街を歩くための目印ならぬ”耳印”が変わってしまったという記事だ。
開いているはずの店が休業したり、換気のためにドアが開けっ放しになっていることでいつも頼りに聞いている「音」がなくなってしまったという話で、一読する価値がある。
WEB特集 静寂の街 消えた“耳印” | 新型コロナウイルス | NHKニュース
そんな風に本書は目の見えない人が物質をどう理解しているか、どうやってスポーツを楽しむのか、絵画を鑑賞できるのか、などなど多岐にわたるテーマを通して「目が見える読者」自身のものの見方を新しくしてくれる。
特に今後も考えていくべきだと感じたのは最後のまとめの部分だ。
視覚障害に限らずどんな障害者も他の人と比べて「できない」ことがフォーカスされてしまう。それはまさに大量生産・大量消費を基盤とする現代社会を運営していくうえで、マニュアル通りの作業が「できない」人は不要とされてきたからではないのか?
これは昨年末読んだ『アイデアは敵の中にある』の中にも書いてあったことと同じだ。
著者の根津孝太さんも、マニュアルで管理効率を上げようとする企業が自分たちの意にそぐわない相手を「コミュ障」と呼んでいると指摘していたのを思い出した。
誰が作っても同じ製品であるためには、決められた作業ができる人を集めなければならない。このことが僕の頭を悩ませる。社会はこのままで本当にいいのか。
僕の疑問はマルクスの『資本論』に繋がっていく。ちょうど最近他でも勧められていたから興味はあったけど、僕はどんどん難しい本の山を登っていくような気がしている。
「目が見えないこと」が障害なのではなくて、「目が見えないことによって他の人に就ける職に就けないこと」が障害なのだ。
目の見えない人にも特性があって、その特性を活かして仕事ができることが理想的だ。必要なことは、目が見える人が作ってきた”目が見える人の為の社会”を変える為に、目の見えない人のことをもっと知ることじゃないだろうか。
視覚障害だけじゃなく、様々な障害を理解することが必要だ。それはやはり施設に集めることじゃなく、同じ街で一緒に暮らすことから始まるのだ。
この本は視覚障害者と健常者の差をなくすことではなく、その違いを互いにうまく利用していくことを教えてくれた。