ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

自分を疑うパン

ある保育士の話。

 

子供達がそれぞれ自分の好きなことをして、終わったら片付けてまた次の遊びを始める理想的な保育空間。

それができるまで沢山の試行錯誤があっただろうに、その保育士から出た言葉が

「この子達はもしかすると、こうすれば保育士が喜ぶとわかってしてくれているだけかもしれない」という。

凄い。ここまで考えられるのは本当に凄い。

 

世の中のあらゆる場面で学ぶことは多いし、自分の考えが必ずしも正しいとは限らないことはわかっていても、長年の経験や知識からくる考えは固まってしまいなかなか崩せない。

 

そんな自分のやってきたことをちゃんと疑い、そしてまた考えるというのは本当に凄いと思う。

 

今朝の通勤途中でこんなことがあった。

 

朝から風が強かった。会社へ歩く途中、道路に大きなゴミ袋が転がっていて車がそれを跳ねていた。そのままでは危ないので拾いに行って近隣の家に置いてあったゴミの中に置いてきた。

 

単純に良いことをしたと思った。

しかし先ほどの保育士の話が頭をよぎる。

自分が良いことと思っている良いことは本当に良いことなのだろうか?

もしかすると僕が立ち去った後でそのゴミ袋にカラスが来て、関係ない人の家の前を散らかしてしまうかもしれないし、

実は市の規定で一軒につき回収されるゴミの量が決められていて、回収されずに残ってしまうかもしれない。

自分が気づかない所で知らない誰かが不都合を被ることはいくらでもあり得るのだ。

良いことをしたと独りよがりにならず、その影響で起きる想定外のこともなるべく気にするようになりたい。全部は不可能だろうがなるべく。

こんなことを考えてるから落ち着かない性格なんだろうなと、また考えてる。

政治的発言パン

 

ローラが辺野古の基地建設に反対する署名運動に言及したことで、タレントの政治的発言の正否が問われ始めた。

 

本当は辺野古の基地建設の正否を問うべきだと思うが、今のメディアと世論ではそんなこと期待もできない。

 

そこで、

「タレントの政治的発言はアリか?」というくだらない論争について考えてみる。

 

この論争をしている有名人が、今まで下に見ていたタレントの発言を否定しているだけのようにも感じる。

普段から意見を言っている立場が上の人に対しては文句を言えないのだと思う。

 

そもそも、タレントである前に誰しもが国民であり納税者なのだ。

「タレントの政治的発言」ではなく、

「1人の国民の意見」なのだ。

民主主義の世の中で、その発言が封じられていいはずがない。

 

同様に全ての人は意見を言う権利を持っていると思う。

 

なので、基地建設に賛成する人も発言をしていい。

 

意見や立場の相違に関係なく、相手を尊重する態度が必要なんじゃないかな。

近頃は相手を右だ左だとレッテル貼りしてそれだけで拒むことが増えてしまっているが、大事なのは議論・対話をして、より良い中間点を探すことじゃないだろうか。

そして議論が終わると「またな」と別れられる爽やかさがあった方が気分も良いんじゃないだろうか。

 

僕は基地建設に反対して署名をしたが、沖縄に住む僕の友人は

“基地に賛成しているが今回の政府のやり方はおかしい”

という理由で署名をしたという。

 

話を聞けば聞くほど知らない角度からの考えを知ることができる。

その機会を自ら失うのはもったいない。

地上波テレビパン

地上波テレビが次々と批判されている。

 

https://toyokeizai.net/articles/-/258634

 

料理が上手くない女性を笑い者にしたり、

勉強以外のことに無頓着な東大生を馬鹿にしたり、

障害者差別や人種差別が取り沙汰されたり…

 

確かに僕も今のテレビは程度が低すぎるように感じる。

もう8年間もテレビのない部屋で暮らしていて、ほとんど見る機会がなくなった。

年末年始親戚の家でついていたテレビ番組をいくつか見かけたが、本当にくだらなかった。

途中から入ってきた視聴者を取り逃がさない為だろうが、常に左上に説明テロップが表示されている。説明テロップそのものが番組名ということすらあった。

視聴者を馬鹿にしていると感じた。

 

以前こんなことがあった。

ラジオをつけると何かの話の途中だった。しかし数分聴き続けるとどうやらさっきまで、実際にあった振り込め詐欺の手口を紹介していたらしく、これからその対策について話すらしいことがわかってきた。

そう、僕らは数分あれば話の内容から前後を推測することができるのだ。

今のテレビは丁寧なテロップをつけて視聴者に合わせているつもりだろうが、そのテロップが考える機会を損ねているように思う。

意図的にそうしている可能性もあるが。

 

そして本題。

始めに紹介したような地上波テレビへの批判が最近あまりに多いように思えてきた。

その背景として「時代遅れの地上波テレビを批判する為に見ている人」が存在しているような気がする。

そういう人たちが「差別発言だ!」「傷ついた!」と叫ぶ機会を探しているように感じるのだ。

この揚げ足をとるだけの行為は全く意味がないので僕としては、

「そういうテレビを見ていることそのものが時代遅れだ」

という風潮にしてもいいのではと考える。

そうすれば、時代遅れのテレビにつっこむこと自体がダサいので誰もテレビを見たくなくなる。

すると、テレビというのは誰も見ていないのが当たり前なので顔色を伺うこともなく自由な番組作りをすることができる。

結果的にそれが好きな人だけを集めることができるような展開も起きるのではないか。

テレビに明るい未来があるとすればこの道じゃないだろうか。

 

Netflixの方が遥かに面白いけど。

それすら出来ないパン

僕は飛行機の前から36列目の席に座っていた。

真ん中に通路が一本あり、その両端に3席ずつあるタイプの飛行機だ。

 

約2時間のフライトを終え、ベルトのランプが消えた途端に乗客たちが荷物を抱えて我先にと通路に出てくる。

扉が開くまでにも、自分が出られるようになるまでにも時間が少しかかるのに、ここで立ち上がってじっとしている人を見るのは面白い。

 

前列の人から降りていく中でアナウンスがあった。

「22列目の頭上のスペースの上着を取っていただけますでしょうか」

おそらくその席のお客さんが忘れて降りてしまい、通路が一本しかないためその人も乗務員さんも取りに戻れなくなったのだと思う。

 

しばらくしてようやく後方にいた僕も通路に出ることができ、出口へ向かっていたところ、例の22列目の頭上にジャンパーが置いてあるのが見えた。

 

誰も取ってあげていない!!

 

取って乗務員さんに届けたが、僕は愕然とした。

アナウンスがあってから僕の前を行く何十人もにその機会があったはずなのに、誰一人ジャンパーを取らなかったのか…。

 

こういうことに遭遇する度に悲しくなる。

困っている人を助けることよりも、自分が何かに関わるのを避けることの方が優先されている。

というか今回に関しては、大した苦労でもない些細なことのはず。それすら出来ない。

 

逆の立場になったとき、やはり助けてもらえる社会がいいなぁ。

 

大人パン

「大人になれ」「まだまだ子供だな」って言葉は便利だ。

それを言った瞬間に立場が上になったように感じられる。

 

具体的に「○○なので××をするべき」など明示する訳でもなくただただ「大人」というワードでマウントを取るのは卑怯でしかない。

もはや暴力的だし、そういうやり方をすることこそ「子供」だ。

 

歳上の人が「お前には大人の考えがまだわからん」と言うのは同様に「若い人の考え方がわかってないんでしょ」と言い返せてしまう。

大切なのは、その「考え」というものを言葉にしてお互いに伝え合い知っていくことじゃないだろうか。やはり対話が大事である。

そうでなければただの言ったもの勝ち社会になってつまんない。

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遺憾パン

いつからか日本では政府も企業も学校も、あらゆる場面で「遺憾」という言葉が使われてきた。

 

しかもその多くは否定を意味する「いけない」を強めた「いかん!」と似たような意味合いで使われているように思う。

 

実際の「遺憾」の意味は「心残り、残念」である。

 

だから犯罪に対して「非常に遺憾」とか、外国の強行姿勢に「極めて遺憾」と言ってしまうのは「残念だ」と暗にそれを認めてしまっているように思う。

 

本当に良くないことならば抗議する姿勢も必要なはずだが、知ってか知らずか毎度のように「残念」で済ませてしまっている。

 

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英会話パン

2018年は英会話の勉強をした。

 

今までも英語の学習はしていたが、中学高校では受験に向けた勉強、大学ではTOEICに向けた勉強が多かった。

大学時代は英会話にも積極的に参加していたがなかなか自信がつかず、話すことに消極的になっていた。

 

専攻していたドイツ語に関しても同じだ。

 

これ以上の伸びは経験と復習の積み重ねでしか得られないものだと思っていた。

 

しかし今回の英会話のレッスンを通して新たな発見があった。

自分の仕事や生活の中、あるいは社会問題などから日頃考えていることを英語で伝えるのが物凄く楽しいのである。

主張や意見をしっかりと伝えたいので知っている単語の中からなんとかやりくりして表現するというのが楽しくて仕方ないのだ。

その上で先生から「この表現をしたらいいよ」と新しく教わる語彙はすんなりと身につく。なぜならそれはまさに僕が“言いたかったこと”だからだ。

 

今までやってきたテキストの例文には当然だが僕の意見は入っていない。

煙草を吸わない僕が「喫煙所はどこですか」と質問する理由がないのだ。

 

そして数年前までの僕は自分の意見がなかった。あってもあまり外に出さなかった。

それが日本語で意見を持てるようになることが英語ドイツ語の学習を進めるガソリンになったのだ。

外国語の習得は頭打ちで、あとは地道な努力だけだと思っていたところの思わぬ発見だった。

もちろん努力は今後も必要だが、言いたいことを言えるという体験が学習へのやる気を引き出すんだと気づけたのは大きな進歩だと思っている。