テレビ番組で「小児性愛障害」の特集を見て、妻が
「こういう人ってどうしたらうまく生きていけるんだろう?」と言っていた。
SNS上では多くの人がかなりキツイ表現で小児性愛を否定・批判している。
当然それらが判断力のない子供たちへの性加害を恐れているのもよくわかる。
一方で、昔と比べて「多様性」というものが日本でも浸透しつつあり、例えば性的マイノリティの認知もこの10年だけでも大きく変わったと思う。
そうやって同性愛者は徐々に理解されてきたように、小児性愛者も理解されることがあるんじゃないか、それが「人権」だし「多様性」なんじゃないかというのが妻の考えたことだった。
これを聞いて僕も一緒に考えた。
小児性愛もその人の中に芽生えた特性ならば、まずはその存在を認めなくてはいけない。
そもそも問題なのは性加害者となっている場合であって、被害者を生まなければ小児性愛者は誰からも咎められることなく生きていけるはずじゃないのか。
20年前くらいは「ゲイ」という言葉やその存在自体がとても異質で、ものすごく否定的に扱われていたはず。それが今現在「小児性愛」にかけられている言葉ととても近いんじゃないかと思う。
つまり今は犯罪と併せて大きなマイナスイメージがついてしまっているが、小児性愛の存在自体が悪いものではないことが世間に知られ、かつ当事者が世の中に一定数いるんだということがわかってくればいいんじゃないだろうか。何年かかるかわからないけど。
異性愛者だって、衝動が抑えられずに満員電車で痴漢行為に走る者がいる一方で、「こういうことはしない」と理性を働かせて生きている人も多くいるはずだ。
であれば、小児性愛者がみんな犯罪者なはずはなく、そこに当たり前の理性や倫理観を持って生きている人もいるに違いない。
そう考えると先に挙げたようなSNSでキツイ悪口を書いてしまうような側にこそ指摘すべき問題点があるようにも思えてくる。
人はやはり自分の理解の範疇を超えた存在を脅威に感じるようになっているので、敵視するような行動に出るのも理解できる。子供への犯罪の可能性もあるとなると尚更かもしれない。
だからこそやはり「理解できない性的思考」について一旦考えてみることが必要なのだと思う。朝井リョウの『正欲』なんてまさにそういう物語だった。
一度「これは悪だ」と認識してしまうとそこをノーマルに戻すのは用意ではない。だからこそ僕らは常に偏見を持ちやすいことの怖さを自覚しておかなくてはいけないし、よく知らない相手を攻撃する前に立ち止まることが必要なのだと思う。
ここで話を戻して、どうすれば小児性愛者が生きやすくなるか。
最近Podcast番組の『ポケットに沼を』の中で「非実在青少年の人権」をテーマに話していた。
これはつまりアニメやCGの未成年キャラクターにおける性的な扱いについての話なのだが、はっきり言って僕自身が好んで見たことがないのでイメージできていない所も多々ある。
ただ可能性として言えるのは、そういうアニメがあることで実生活にも同様の衝動を起こしてしまう人がいるかもしれないし、逆にそういった衝動を抑えることにアニメの存在が役立っている場面があるのかもしれないということだ。
こういうものは公に置かれるというよりは、求めている人が探せばアクセスできるくらいのところにあるのが適切なんだから、これらを制作する人よりもわざわざ「こんなけしからんものがありました!」と大々的に引っ張り出す人の方がよほど困る存在なんじゃないかなと思ったりする。
結論としては、人を何かしら勝手な言葉で否定するのは安直だということだ。思い込みの正義を持ち出して他人の生活を犯すという意味では、そっちの方が怖いんだ。