ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

新規感染者パン

毎日毎日「今日の新規感染者」が発表される。

 

「◯日連続100人超」

「1日の◯◯人超は初」

「◯◯で感染者◯人」

正直うんざりしてきた。

もう“新規感染者数”だけでは何も意味しないことはわかってることじゃん。

検査数が増えたのか、感染の疑いがあるところを追えているのか、それとも政府の対策が間違っていたのか、様々な要因に触れることなく「今日の新規感染者」だけを発表するのはいい加減にやめた方がいい。

 

と言ってもどうせやめるはずはない。

感染者数は多くの人の関心事のようで視聴率やPVに直結しているのがよくわかる。

実際のところ学校や職場で挨拶替わりに「今日は◯人だって」と交わすことも増えたはず。

 

いま一度言うけども、一つの数字に一喜一憂してちゃいけない。考える力を放棄してはいけない。

 

そんな日々を過ごしていて、まだ感染者の少ない実家の地方の話を聞くと感覚の違いに驚かされる。

東京に住んでいると嫌でも毎日100人とか200人とか聞こえてくるせいでだんだんとその数字に慣れてきてしまうもので、おそらく既に自分もウイルスを持ってるかもしれないからマスクをした上で最低限の行動に済ませようという思考になるんだけど、田舎ではそうじゃないらしい。

2個隣の市に感染者が1人出たことが大きな騒ぎになり、その人がどこの誰でどんな行動をしてたかが一気に広まり、その近くにいた人の近くにいたくらいのことでも危険人物扱いされ、風邪などひこうものなら例えその後の検査が陰性でもしばらく噂話が広まっていく。

 

なるほど、そんな世界に住んでいれば東京はその何十倍もパニックだと想像して心配してくれるのだろう。実際は人口が多すぎて目の前の人すら何処の誰だかもわからないしその人の行動まで気にしてないってだけなんだけどね。

 

ずっと言ってるけどさ、落ち着こうよ。

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画像は7/28時点です。

考え方が大きく変わったパン

半年前までの自分と今の自分とで考え方が大きく変わったことがある。

 

例えばエスカレーター。今まで幾度となくエスカレーター前に1列になって行列を作って乗っている人に疑問を感じてきた。右側に乗ればいいじゃん!って。

そして何故かみんな1段か2段空けて乗っていることに気づき、詰めればいいじゃん!そうすりゃ多分そんなに並ばなくて済むのに!って。

 

例えば電車。ドア付近で立ち止まってゲームしてる人がいて、車両の真ん中はスペースが空いていたので「乗りたいので奥に詰めてもらえますか」って言ってた。

 

この半年でもう世の中はそうではなくなった。

 

人との間に距離を取ることが正しいとされるし、こうしてくださいと要求することはもしかすると過剰に受け止められるかもしれないと感じるようになった。

だから電車のドアの所で立ち止まられてしまったらすぐに別のドアを探さなくてはいけないし、乗れなかったら次の電車を待たなくてはならなくなった。

 

今まで「奥に詰めてもらえますか」とか、「後ろの人乗りたそうにしてますよ」とか良かれと思って声をかけていた自分はもしかすると“自粛警察”と言われるような性格にかなり近いところにいるような気がしてきた。

 

考えてみると自分で決めた日課すら守らないと気持ち悪くなる質だ。公に「ステイホーム」と言われる中でステイホームしていない人を非難する気持ちなんて簡単に沸き起こりそうで恐かった。

 

なんとも言えないこの感情の渦から早く逃れたいのでここで文を書くのをやめる。

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感染症対策を徹底していますパン

イベントの告知などで「感染症対策を徹底しています」と見かけることが増えた。

 

僕はこれを見かける度に、その対策は“本当に”正しい対策なのかと疑問に思う。

 

つまり、参加者が触れ合わないよう離れた場所に線を引いて一定距離を保つことや、決まった時間に換気をしていることや、人が触る箇所をアルコールで消毒していることなどを「感染症対策」と呼んでいるんだろうけど、それらがたまにウイルス対策ではなくみんなやってるからやってるように見えてくるのだ。

 

逆に言うと、人と人との距離が近かったり、飛沫防止のビニールが張られていない場合に誰かから注意を受けることを恐れてとりあえずやってるみたいなところがあると思う。

 

実際「毎回消毒してるんです」と言いながら消毒液を吹きかけ雑な流れ作業で机や手すりを拭いているのをよく見るし、下手すると消毒液をかけただけというのも見たことがある。

「換気してます」と言いつつただ窓を開けるだけで空気の流れを作らないのも見た。

 

何の為にそれをやっているかを理解していないからこうなるんだと思う。

“ルールだからやってる”じゃ何の意味もない。

 

イベント側も「対策してます」だけでなく、「来場者一人ひとりの意識が大切です」と併記してもいいんじゃないだろうか。対策してるから安心だ、もし仮に感染しても会場が悪いんだ、なんて考えを持たれてはいけない。

 

感染症対策も言われるがままじゃなく、ちゃんと自分の頭で考えることが大切。

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国を脅かす大犯罪パン

ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』に人類は虚構によって繋がることができ、その最も大きな要因は貨幣だと書かれている。

国が発行する紙幣や硬貨の価値を国民全員が信用しているから貨幣の対価交換が成立しているのだという。

逆に言うと、皆がその価値を信じているのは国を治めるトップが貨幣の価値を信用していてそれを使って税金を払うよう要求しているからなのだとか。

 

これを知って妙なことを考えてみた。

 

僕はここ数年、今の日本という国のトップを信用できないでいた。更に現在の最大の関心毎といえる感染症対策の件でこの国の政治はもう機能していない手遅れ状態だということが露見された。

そして貨幣の話をダメダメな国のトップを根底から脅かすことに繋げて考えてみた。

 

例えば海外で大量に日本円の偽札を作って一斉に全国に出回らせることができればどうだろうか。令和の「ええじゃないか」を巻き起こし、まずは貧困家庭の救済から始まり、その後一気に日本銀行券の価値を墜落させ、今の国家システムを破綻できるんじゃないだろうか。

 

そりゃあ当然世紀の大犯罪なんだけど、歴史的大改革ってこうでもしなきゃ起こらないとも言える。小規模の活動では今の政権は簡単に握り潰すだろうし。

悪ふざけでもこんなブログ書いてると共謀罪にあたってしまうのかしら。

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ややこしいことが面白いパン

Netflixで配信されているドイツのドラマ『DARK』

前にシーズン2を見始めたことをブログに書いたけど、この度ようやくシーズン3を見終えて無事完結したので思うことを書いてみる。

 

まだ見てなくてどんなドラマ?って思ってる人は前回の記事も併せて読んでみて下さい。

ダークパン - ソートベーカリー

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【以下ネタバレ含む】といいつつ、そこまで詳しくは書けないので、少し興味あるけど本当に面白いのかなと悩んでる人向けに書く。

 

 

まず作中で「終末の日」とされる2020年6月27日に合わせて公開されたことだけでもシリーズを追ってきた者からすると嬉しいはず。

このコロナ禍で予定通り配信されて良かったという安堵感もあるのかもしれない。

 

ただこの最終シーズン、はっきり言ってややこしい!シーズン1・2とややこしかった物語が更にもう一捻りされる。

 

ざっくり言うと、

①主に現代と33年前と66年前と99年前と33年後の場面があり、それぞれの時代で登場人物が若かったり歳を取っていたりするのでまず顔と名前を一致させる必要がある。

②しかもその登場人物がそれぞれの時代を行ったり来たりしている為に、誰のどの行動が次にどんな影響をもたらすのかを理解するのが難しい。

③そして一部の登場人物は他の人を利用しようと自分の企みとは逆の発言をしたりするからもっともっとややこしい。

④なんと実はこの世界と対をなすもう一つの世界が存在し、そこでも同じように33年周期で事件が起きている。

 

もう訳わかんない!

何度も前の話を見直したり、考察サイトを読んだりしながらやっと完結することができた。

こんなに苦労してドラマを見たのは初めてだし、こんなに苦労してるからこそ途中で降りるという選択もできなかった。

 

ただ、本当に面白いことは間違いない。

最終シーズンで起きたことがちゃんと以前の場面に繋がっていく様子には爽快さすらある。

登場人物も多くややこしいからこそ繋がっていく過程も多く楽しめる。

結末もとても良かったので離脱しないことをお勧めしたい。

 

あとね、個人的な感想としては俳優達のドイツ語の発音がとても聴き取りやすいのは小さなポイントだ。ドイツ語字幕で勉強してもいいかも。

いつもの映画と違うパン

インド最大の人気映画『ダンガル』を観たことがあるか。

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レスリングの国内王者である父親が、自分に成し得なかった国際大会での金メダルという夢を娘に託し、レスリングを教えるという実話だ。

 

160分の映画にするくらいの実話だからそりゃ紆余曲折ありながらも最後には綺麗な物語として終わり、インドだけじゃなく世界中で評価された作品としてとても良かったことは言うまでもない。

 

しかし、ひとつ驚いたことがある。

 

映画の冒頭、レスリングを教える為に息子が欲しいと願う父親の希望とは裏腹に、家庭には娘ばかりが生まれてくる。その都度母親は謝り妊娠する度にプレッシャーを感じている。

そして男子が生まれなければと娘を毎朝5時に起こして無理やりトレーニングを積ませる。決して娘が自分からレスリングをやりたいと言った訳ではない。

 

この2つの場面が“悪しき慣習”だと指摘する描写が一切ないのだ。

 

僕がなぜ驚くかというと、本作の主演アーミル・カーンの他の映画ではしっかりとそれらを指摘するからだ。

例えば『きっと、うまくいく』では、良い成績を取らなくてはならないというプレッシャーから自殺する学生もいるほどの学歴至上主義の世の中に対して自分の好きなもの楽しいものを学べというメッセージを伝え、

例えば『PK』では、宗教大国インドのど真ん中で根拠のない言葉に振り回されず自分が心から信じられるものを見つけるべきだと説き、

例えば『地上の星たち』では、どんなに周りと違っていて馬鹿にされても自分の思うままに表現することが大事だと教えてきた。

 

そんな彼が『ダンガル』のあまり素敵でない父親役をやっていることに驚いたのだ。

 

一か所だけ、結婚する女の子が浮かない顔をしてその後の家事や子育てをするだけの未来を憂うという描写があり、それと対比してレスリングで活躍した主人公の娘ギータは世界に羽ばたく自由を得たということを表現しているんだろうけど、全体的にはかなり薄い。

それはこの物語の主軸がそこじゃないからだろうから仕方がない。

実際、映画の後半では父親は娘にとってかけがえのない大切な存在になっているのだから問題ないということなんだろう。

 

いろいろ思うことはあるけど『ダンガル』が面白い映画だったことに変わりはない。

レスリングシーンの迫力はもの凄い。見ていてレスリングが好きになるし、実際の試合も見てみたくなる。

是非。

ルールを作らないパン

ルールや決まり・規則を作るということに疑問を感じるようになってきた。

 

もちろん人類はルールを作ることで協力し、会ったこともない人ともうまく関わることができるようになっていった。

例えば法律によって犯罪を取り締まるようにしたり、道路標識で交通事故を減らすようにしたり、お寺や教会に通う宗教文化もそうだろう。

つまり決め事を明文化して共有することは人類の大発明だと言える。

 

だけど一方で現代ではこういったことが起こるようになってきた。

「LGBTの差別禁止条例」がむしろさらなる差別を招くという矛盾 現実社会には「圧倒的解決策」はない | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

LGBTに対する差別をなくそうという一見するとポジティブに多様性を受け容れる社会への一歩とも受け取れるこの条例が、逆に自分は違反したくないから関わらないようにしようというネガティブな思いを生んでしまい受け容れるどころかむしろ距離を取るような流れになることが懸念されている。

この記事では障害者に対する規則についても同じことが起こっていると指摘している。

 

チームラボの猪子さんが2015年時点でのインタビューでこう話している。

ルールを増やし、その高度なルールをこなせる教養を持った人が完璧にこなしているのが素晴らしい社会、みたいな像が日本には根本的にあって、それは間違ってるんじゃないかと思う。

2020年、外国人がたくさんやって来る。そのとき、当たり前だけど、海外の人は日本の細かい高度なルールを守れない。だいたい今いる場所が何区かなんて僕すらわからないし。それに対して「外国人はマナーが悪い!」っていう勘違いな批判をする日本人が増え、外国人は「日本人は外国人が嫌いな排他的な国だ」と思う。このままだと、外国人は日本を嫌いになり、日本人は外国人をより嫌いになる悪循環のきっかけになる気がするんだよね。それを防ぐためにも、制度のデザインをすごく直感的でシンプルに、ルールがわからなくても迷惑をかけない社会に設計することは必要だと思う。 

 

なんでもルール化することが危険に思えてきた。

 

例えば駅のエスカレーターにはほとんど「2列になって乗ってください」「歩かず立ち止まって乗ってください」と書かれているのに、実際にはみんな片側に列を作って乗っている。2列になって立っていようものなら後ろから邪魔だよと言われてしまうこともある。

 

そう、日本には書いてあるルール」と「共有しているルール」が違っている場面も沢山あるのだ。そりゃ外国人には無理だろう。

 

誰もが暮らしやすい社会にする為に新しいルールを作ってしまいがちなんだけど、実際はそれが余計に複雑な事態を生むのかもしれない。

身の回りでもルールや規則があることで誰か困ってないか、また新しく作ることが本当に改善と言えるのか、そしてもっとシンプルなデザインがあるんじゃないか、よく考えてみる必要がある。

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