たまにカップ焼きそばを食べる。
今日も蓋を半分開け、中の小袋を取り出し、かやくを散らし、お湯を注ぎ、蓋を閉めた。
3分待っている間に蓋の記述が気になった。
記述が多い。
特に気になったのはこれ。
おそらく大抵のカップ焼きそば・カップラーメンに書かれている「やけどに注意」
それって焼きそばの注意書きというより、お湯の注意書きではないだろうか。
そんなことを考えていた。
子供の頃のカップ麺の蓋は簡単なイラストで手順が示されていた程度だったように記憶しているが、最近はイラストの横にいちいち細かく文字が添えられている。
その経緯は容易に想像できる。
蓋を全て開けてしまったとか、小袋が中に残ってしまったとか、お湯を注ぐ前に入れるものと入れないものが分かりづらいとか、様々なクレームがあったのだろう。
それらに全て対応し、かつ責任を負わないように表記が増えていったと考えられる。
カップ麺に限らず、世の中のありとあらゆる場所に細かい説明書きが増えている。
アメリカで、表記がなかったという理由で裁判沙汰になったという話も有名で、それ以降日本の企業でも「書いてあります」と主張できるように注意書きが増えてきた経緯があるだろう。
しかし本当にそこまで必要だろうか。
人命に関わる注意書きならまだしも、カップ焼きそばの手順に事細かな表記がなくてはいけないのだろうか。
生き物は失敗から学ぶことが出来る。
動物は経験則から甘い果実を知っている。
人間だって出来るはずだ。
たとえカップ焼きそばの蓋に何も書かれていなくても、蓋を開けてみればどういうものか推測ができる。もし手順を間違えて失敗しても次に気をつければいいではないか。
何でも書いてある通りにするだけでは人間は考えることをしなくなる。
その思考を全て止めてしまったら、人間に生きる価値はない。