今回取り上げる『モモ』の一文。
子どもたちが、そんなものを使っても本当の遊びはできないような、いろいろなおもちゃを持ってくることが多くなったのです。
おもちゃを売っている立場からするとうんうんと頷ける文章だ。
“本当の遊びができないおもちゃ”って一体どんなものかというと、作中に
例えばリモコンで走らせる戦車、でもそれ以上のことにはまるで役に立ちません。
あるいは細長い棒の先でぐるぐる円を描いて飛ぶロケット、これもその他のことには使えません。
あるいは赤い目玉をチカチカ光らせて歩いたり頭を回したりするロボット、これもそれだけのことです。
と説明されている。
正にここに書かれている通りで、おもちゃというのは子供が持っている想像力で自由に世界を広げて遊ぶ為のものなんだと強く言いたい。
なのに巷に並ぶ「おもちゃ」と呼ばれる物のほとんどには「終わり」の概念がある気がする。完成による終わり、損壊による終わり、流行の終わり…。つまり作り手の想定の範囲内でしか遊びが存在できないのだ。クリアなんてない、壊れない、個人的にやめられない、そんな“本当のおもちゃ”が素敵だなぁって思いながらこの文章を読んでいた。