ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

ルールを決めて欲しいパン

NHKの特集より

News Up 恋人と会ったら始末書?コロナで制限どこまでOK? | 新型コロナウイルス | NHKニュース

 

会社から行動制限を受けたとか、始末書や処分の目に遭ったという声を取り上げていた。当然法的にも認められることではない。

一方で、ルールを設定してもらえる方がわかりやすくていい、という声もあるという。

 

NHK世論調査では、感染症対策による個人の自由の制限を許している人が多数派であることが示されていた。

 

これに対して大学教授が、規制の行きすぎに注意することや行政を監視する仕組み作りの重要性を説いているけど、僕はこの数字を見るにそういう段階じゃない気がしてしまう。

 

つまりみんな、自分の行動の指針や、他人に身勝手な行動をさせないための決まりが欲しいということが全てなんだと思う。

自分でこれをしてもいいかなとかどうやればできるかなとか考えるのは面倒だし、他の人がしていることに口を出して何かトラブルを起こしたくもない。

 

思えば子供の頃から「言うことを聞きなさい」「それはダメです」を言われすぎてて、いちいち許可を取らなきゃ動けない場面って多かった気がする。

バナナはおやつに入りますか?」って遠足のあるあるネタだけど、ここに正に表れている。自分で決めればいいことを確認しないと何もできない。

個人では考えて決めるということができなくなってるのかもしれない。

僕自身もそういう場面があると自覚し、その都度落ち込んでいる。

 

とにかく「ルールを作って欲しい」人が多いというのは、日本の教育の失敗であり、ある意味成功なのかもしれない。

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掃除時間のパン

小学生の頃、掃除時間が終わって次の授業の時間も1人で掃除を続けていた。

最初は先生がクラスの誰かを寄越して僕を呼んでくるようにしていたが、連日続くうちに先生もクラスメイトも、僕のことを「変わり者」として意識の外に追いやることにして、授業中に教室に戻る僕を気にしなくなっていた。

 

この時僕らの班に割り当てられた掃除場所は校舎の一部の廊下だった。

廊下の端から掃除を始めて、反対側に着く前に終了のチャイムが鳴る。

次の日もまた同じ廊下の端から掃除を始めて、途中で掃除が終わる。

妙に几帳面な性格を発揮した僕は、これでは毎日やり残しが出るから掃除をしたことにならないと考え、1人で残って廊下全体を掃除していたのだ。

僕の中では何も間違っていなかった。

 

中学に上がった時、掃除の件を知っている同級生から「また掃除するの?」とからかわれたこともあった。その時は気にもしていなかったけど、大人になるにつれ、妥協することや自分にとっての優先順位を考えるようになり、あんなに廊下の掃除にこだわっていた自分を恥ずかしいと思うようになった。

 

数年前、当時の友人と飲みに行った際にその話になった。僕は「アレはないよな」と半ば自虐するように昔の自分を嘲ったが、友人は違った。

「俺はあの時、先生に対してちゃんと自分の考えを言えて凄いなと思ってたよ」

そんな風に見てたのか。それを聞いて自分で昔の自分やるじゃないかと思えるようになった。

 

自分の意見を持ち相手に伝えるということは案外難しい。昔の自分を手本に、僕は頑張りたい。

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トランプは重要資料パン

トランプ大統領Twitterアカウント凍結について、過激な支持者へのアジテーションをさせない目的なのは理解できる。逆に結束する支持層もいるみたいではあるけど。

 

僕が気になったのは、トランプを否定すべきだという動きが、その存在すらなきものにしてしまう向きに走り始めていることだ。

 

以前、黒人差別への抗議から銅像を壊す行動に移った時にも同じようなことを感じた。

歴史の改ざんパン - ソートベーカリー

 

トランプは確かにアメリカ社会を大きな分断に追い込んだ酷い大統領ではあるんだけど、その分断に加担したのは他でもなく国民自身だということを忘れてはいけない。それは支持者にも反トランプ層にも言えることだ。

 

そしてTwitterはトランプの過去のツイートまで無かったことにしてはいけない。どこかが記録を残しているだろうとは思うけど、彼のツイート全てがアメリカの歴史の証拠だし、更にはそのツイートに寄せられた数多のリプライだって今の社会を物語る上で無視できない検証材料なのだ。

 

ドイツ社会はかつての独裁者ヒトラーを記憶から消すことまではしていない。当時を否定し未来の社会への反省材料としている。(批判的言説しか認められな過ぎることへの多少の疑問はあるけど)これができるのは負の歴史さえもしっかり残してきたからだ。

 

僕はトランプを支持する訳ではないけど、彼の言動は全て重要な歴史の一部として残されるべきだと考えている。

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モモパン⑤

『モモ』から刺さった場面を紹介しています。

 

灰色の男が街を支配していく過程で、時間の節約に追われる大人達が話し合うシーンです。

 

大人に構って貰えない為、子供達が外で遊んでいることについて話し合っています。

「何とかしなくちゃ。今じゃ子供を十分に世話してやれるだけの時間が親にはないんだから。市当局はそのための対策を考えねばならん立場のはずだ」

「子供がうろちょろすると道路交通が妨げられる。事故が増えて、そのための支出がかさむ。もっと他にお金を使えるはずだ」

「放置された子供は堕落し非行に走る。市当局はこういう子供が野放しにならないよう、対策を講じるべきだ。施設を作って、社会の役に立つ有能な一員に教育しなくては」

 

大人達は自らが忙しなくして子供を放置していることを棚に上げ、行政に対策を求めるばかりです。しかも税金の使い道についてもすぐに批判をし、その上子供には大人達に都合の良い教育を受けさせようとします。

 

物語の中の話と切り捨てることはできません。これは完全に現代の話ではないでしょうか?

さらにこの後こう続きます。

 

「これからはコンピューターの時代になる。ところが今は子供達を明日の世界のために教育するどころか、あいもかわらず貴重な時間のほとんどを役にも立たない遊びに浪費させている」

といった考えから各地区に〈こどもの家〉が建てられ、面倒を見てくれる人のいない子は全員ここに収容されることになります。

〈こどもの家〉での遊びを決めるのは監督する大人で、それはなにか役に立つことを覚えさせるためのものばかり”とあります。そしてやれと命じられたことをいやいやながらやる毎日。次第に、好きなようにしていいと言われても今度は何をしたらいいかわからなくなってしまいます。

 

子供が純粋に楽しく遊んでいるものを取り上げ“役に立つこと”を教えようとしてはいないでしょうか?

今は幼いうちから英会話やプログラミングに慣れさせようとしたり、賢くなるようにと“知育玩具”を買い与えたりする話をよく聞きます。

けどそれは本当に子供の為になっているのでしょうか?

 

子供は遊びの中で社会性を育みます。

物の仕組みを見て工夫したり、他者との関わりを通してコミニュケーションを理解したりしていきます。

いやいや教えられる習い事よりも、様々なものに触れていって子供自身が心から好きになったものに一所懸命に打ち込む、その方が子供の人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。

自分で選んだ好きなものなら、辛いことや悲しいことに直面した時に乗り越える力にもなるでしょう。

子供の可能性を大人の都合で狭めないよう、気をつけて子育てしていきます。

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子供のオンライン通話の問題点パン

地元に帰らなかったこの正月、各地にいる親戚をZOOMでつないでオンライン新年会を実施しました。

 

1年間会えていない親戚が画面の向こうに揃っていて、おばあちゃんは元気そうだし、いとこの生活の様子も見れ、幼い子供の成長を感じることもでき、大成功でした。

 

ただ一つ、気が付いたことがあります。

2歳にも満たない子供にはオンラインでの中継は難しいんじゃないかということです。

 

参加する親戚は画面に映った子供に向かって「〇〇ちゃーん!」と手を振ります。大人はそれぞれ手を振っているだけのつもりかもしれませんが、子供の側の画面ではいくつもの窓のそこら中でみんなが手を振っている状態、いったいどこをみればいいのか混乱します。その上、スピーカーからいろんな声が混ざって聞こえてくる、子供じゃなくても慣れていないと困るシチュエーションです。

 

この子供たちが大きくなる頃には、もっとオンラインでのコミュニケーションが一般的になり、実際に対面するという機会が減る社会になるでしょう。確実にオンラインデビューは僕らよりも早いはずです。しかしだからといってそんなに幼い時期から慣らす必要はありません。まだまだ幼い子供は、1対1で相手の話を聞き、自分の気持ちを伝えることだけでも練習段階にあるはず。それから複数人数の場でのコミュニケーションを体験、それからオンラインでも1対1で実際に会うこととの違いをケアできるようになって、ようやくオンラインで複数との会話に挑戦できるように思います。

 

家を建てるのと同じように、成長にも発達段階という計画すべき順序があるのではないでしょうか。

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使う人の自由パン

前回、根津孝太さんの本『アイデアは敵の中にある』を紹介しました。

コミュニケーションを大事にするパン - ソートベーカリー

 

トヨタで働いていた根津さんは本書の中で、今の自動車は以前のように車好きが部品をいじったりできる範囲が狭くなり触ってはいけない箇所が増え、できるだけ商品そのままの状態であるよう注意喚起されていることを嘆いています。これはメーカー側の自衛手段として仕方ないと理解はしつつ、しかしなるべくクレームがつかないよう、企業が責任を負わないで済むような対応になってはいないかと問題提起し、ついにはお客さん自身でどんどん触って部品をいじって工夫を凝らすことのできる車『カマッテ』をデザインしたという経験談を記しています。

 

この話から、近年おもちゃのレンタルサービスが増えていることを思い出しました。毎月数千円で子供の年齢に合わせたおもちゃをレンタルでき、返却してまた別のおもちゃを届けてもらえるというサービスです。おもちゃを置いておくスペースのない家庭やあまり沢山は買うことのできない家庭でも、子供が年齢に合ったおもちゃで遊べることで人気を博しています。

しかし、これはつまり返却することが前提なのでおもちゃを壊してはいけない、キレイに遊ばなくてはいけないということだと思うのです。年齢が過ぎて遊ばなくなったおもちゃをネットで売ろうと考えている家庭ももしかするとそうかもしれません。

だけどどれだけ「キレイに遊んで」と言っても衝動を抑えられないのが子供だし、思いっきり遊びたいという気持ちを大人側の事情で抑えるべきではありません。だったらむしろ、クレヨンで書き込んだり、おもちゃ自体を凹ませたりして「自分のもの」にできるおもちゃがあってもいいんじゃないだろうかと考えるようになりました。

レンタルサービスを否定するつもりはありませんが、子供の頃沢山遊んだおもちゃについては大人になっても覚えているものです。傷があったって、自分の子供にも遊ばせたいと思う人も多いかもしれません。僕はおもちゃ業界に携わる一人として、根津さんのように使い手に自由が委ねられたおもちゃを扱っていこうと学びました。

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コミュニケーションを大事にするパン

「遅いインターネット」というサイトでこの記事を読みました。

コミュニケーションロボットは人間の夢を見るか? | 根津孝太×近藤那央 | 遅いインターネット

 

このインタビューに登場する根津孝太さんは、ちょうど妻が見ていたドラマに出てきたLOVOT(らぼっと)というロボットを作られた方で、LOVOTがコミュニケーションを通して家庭の中に溶け込み、愛されていくという話から映画『アンドリューNDR114』のような世界が身近なところまで来ているような感覚になりました。

 

そしてこの「根津」という名前を見ている内にふと気づき、これまで交換した名刺の束を取り出しました。なんと2019年2月のドイツ・フランクフルトのメッセ会場付近の路上で日本人ですかと声をかけてくださったのが根津さんだったのでした。

根津さんは国際玩具見本市に出展なさっていたようですが、僕はこの時スケジュールが詰まっていて、しかも仕事上ロボットのゾーンには近づくこともほとんどないので(メッセ会場は物凄く広いんです・・・)、伺うことができず名刺交換だけの関係となってしまっていました。

 

しかしこうしてインタビューから再会できたのも何かの縁と思い、根津さんの著書『アイデアは敵の中にある』を拝読しました。f:id:mumusanopinojr:20210103184034p:image

 

根津さんは本書でもコミュニケーションを主軸に話を展開させていきます。

 

商品開発においても、チーム全体のコミュニケーションの大切さを説いています。

そもそも、自分のアイデアがベストであるという保証などどこにもなく、それを提示して議論が活性化して”皆で”より良いものに高めていくことの方が絶対的にベストに近いものになります。その為にはやはり積極的なコミュニケーションが必要ということなんですね。その中で自分とはどうしても噛み合わない考えや反対意見の人がいることもあるのですが、そういった相手からの意見こそ丁寧に聞き入れるべきというのが本書のタイトル「アイデアは敵の中にある」の意味なのです。

 

僕も仕事の中で、自分の考えと反する対応をされることがあります。そんな時に、相手がどうしてそうしたいのかを詳しく尋ねてみる、そうすることで双方の意見を取り入れた全く別の方法を考えることができた場面が何度もありました。

根津さんは2016年時点でこのコミュニケーションを交わす場は「電話やメールではなく、全員が同じ場所にいるからこそ可能になる」と書かれています。僕もこれに同意です。テレワークが推進される今、物理的に離れていても意見を交わすこと自体は可能かもしれませんが、互いの思いや雰囲気まではまだまだ伝わりきれておらず、”より良いものを”という結果に繋がっていないように感じるのです。

 

さらに本書では「こいつは異分子だ、と思う人や物事の中にこそ宝物が眠っている」とあります。自分にとって「敵」や「異分子」と感じる人は自分とは全く違う考え方を持っているということです。

 

しかし今、日本全体が、組織を管理しやすくするために、「例外を認めない」方向に向かっていることを根津さんは指摘します。つまり例外を認めると、その度に組織としての判断が必要になり、仕事効率が下がってしまうという理屈です。そしてその「効率」だけを求めた先にコミュニケーションが必要なくなってしまうことを問題視しています。新しいアイデアを生み出す際にはコミュニケーションが必須だと感じているからです。

 

ここで根津さんは「コミュ力」「コミュ障」という言葉をよく聞くようになったことに話題を移します。どうしてこういった言葉が使われる機会が増えたのか。

それはまさに、先の「組織を管理しやすくする」という方針の為に作られたマニュアルのせいだと言います。「マニュアルさえ覚えれば仕事ができる。マニュアルさえ守っていれば他の仕事をしなくても済む」という基準で人が働くことで「例外を認めない」を実行しているのです。

そうやって社会が勝手な枠組みを決めてしまい、そこから外れた人のことを「コミュ障」と呼んでいるのではないでしょうか。企業が求める人材像の「コミュニケーション能力」という言葉の意図もそこに含まれているのでしょう。

しかし根津さんは本書の序盤から一貫して、「例外」「異分子」にこそ物事をより良くするヒントがある、と言い続けます。

 

自分が相手を異分子と感じることも、逆に相手にとって僕が異分子に見えることもあるかもしれません。この本を読んで、僕はどんなにおかしな意見でもまず発信してみようと改めて感じました。たとえそれが全否定されたとしても、自分にとって発見があるということがわかったからです。仕事への向き合い方ももっと改善していけそうです。

 

そして本書最後に根津さんはこう書かれていました。

一期一会の出合いを粗末にするのは、ものすごくもったいない。

せっかく出合えた人との関係を感じ、考え、動く。それに尽きる。

この文を読んで無性に根津さんと再会したくなりました。

 

些細なきっかけから手に取った本でしたが、確実に読んでよかったと言えます。

線を引いた箇所は数知れず、自分の仕事や日ごろの考えと繋がる部分がいくつもあったので、次の記事に書こうと思います。

根津孝太さん、ありがとうございました。