ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

自分さえパン

自分さえ良ければいいのかどうか。本当に悩む場面がある。

 

混んでいる電車で乗りたくても乗れない人がいた。

その反対側のドア付近に妙な隙間がぽっかりと空いている。

このスペースを詰めればあの人は乗れる。無理やり人を押し合う必要もない。

 

僕は目の前のサラリーマンに

「あなたが一歩前に出ればあの人は乗れますよ」と声をかけた。

無視された。

そのサラリーマンは涼しい顔で本を読んでいる。

 

え?なんで?

 

逆の立場になってみたらわかるだろう!誰も協力してくれないせいで自分が電車に乗れなかったら嫌な気持ちになるだろう!

 

自分さえ乗れればいいと考えている人は乗る資格なんかないと思う。

乗る人も降りる人も互いに協力する社会の方が良いじゃん!

 

ただ僕もどこまで声をかけるべきかわからないことがある。

例えばの話だが、そのサラリーマンには訳があって耳が遠かったり即座に動くことができない人だったかもしれない。それなのにいきなり僕が話しかけたことで無茶なリクエストをしてしまっているかもしれないのだ。

僕の「前に出ればいいじゃん」発言こそが自分さえ良ければの考えになってしまってはいないだろうか、と考える。

 

例えば、「後ろの人が乗れるように、前に詰めることはできますか?」のような訊ね方もあったかもしれない。

それならば当然その人にも拒否権がある。その余裕を与えてあげられなかった自分を大きく省みる。

 

更に考えると、僕が発言をする必要があるのかという疑問が浮かぶ。

僕は電車に乗れているし、狭いスペースに立っているが困ってはいない。

乗りたくても乗れなかった人が、「乗りたいので詰めてください」と言えばいいのではないか。

でもその人が何らかの理由で発言や主張ができない場合もある。やはり困っている人を見かけたならその場でできることをしたいと思ってしまう。

 

自分は何をするべきか、何もしないべきか、何を言うか、その言葉のチョイスは合っているか、などぐるぐると考えてしまう。

 

一つだけ言えることは、みんな周りを見ようよってこと。

ゲームしたり本読んだりするのは自由だけど、それが無意識に誰かの邪魔になってることもあると自覚して生きていこうって思う。自分さえ良ければいいってものじゃない。