以前、アメリカの聴覚障害者の男性がポルノ動画の大手サイトを訴えたという記事を見かけた。
ポルノ動画に字幕を、聴覚障害者の男性が3サイトを提訴 米 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
彼の主張する通り、確かに聴覚障害者にとっては字幕がなければ楽しむことができない。そりゃそうだと膝を打つ。
ポルノ動画の件で目立つことはちょっと恥ずかしいと思ってしまうものだけど、そこは自分の権利を主張する性格が上回ったということだろうか。羨ましく思ってしまう。
この一件について関心した時点で、僕の中には障害者が生活するということへの抜けた視点がまだまだ沢山あるんだなと思い知らされる。
今回主張したのは聴覚障害者だったけど、じゃあ視覚障害者にAVを楽しむ資格はないのか、または他にどんな楽しみ方が考えられるだろうかと思いを巡らせてみたりする。
別にAVに限らない。今僕が書いているブログだって、視覚障害のある人には届かない。もしかしたらWEB上の文章を読み上げる機器があって読んでもらえているのかもしれないけど、それは向こうが歩み寄ってくれているだけで僕は何もできていない。情けない。
たまに考える。今の世界はいわゆる“健常者”が自分達の当たり前を積み重ねて作られた街でできている。だから視覚障害者向けに点字ブロックが敷かれたりしているが、彼らは点字ブロックの上しか歩いてはいけないのか、そんなことはないはずだ。
だからもし目が見えない人だけで目が見えないことが“普通”とされる社会を作っていって自分達の都合よく物が作られ配置されていったらどんな世界になるんだろうか。
もちろん目だけじゃなく、耳が聞こえない人の世界や車椅子に乗る人だけの世界だって今とは全く違うものになるはず。
車椅子の人だけの世界だったらもはや逆に車椅子なんて必要なくてもっと良い移動方法が作られたりするんじゃないだろうか。
逆に劣った部分じゃなく光や音や匂いを人一倍敏感に受け取ってしまう人だったらどうなるだろうかと、考えを巡らせてしまう。
つまり僕が言いたいのは、自分にとって当たり前の世界でも他の人がどう感じているかを少しでも想像するのが大事だということ。
その為には世の中にどんな“自分と違った特徴”が存在するかを知る必要があると思う。
いろんな立場の人の気持ちを考えられるようになれば「重度障害者は必要ない」なんて言葉が出てくることはなくなるはずだ。