ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

いろんな色いろんな人パン

Twitterでたまたま見た障害者を取材した古い映像での発言。

「障害者の福祉のためには施設を作らなければ、というのは違うと思うんです。障害者のためではなくて、障害者がこの社会にいると邪魔だから一箇所に集めて隔離してしまうというだけのことで、私達のためではなくて健全者社会のためなのです」

 

これは皆が考えていくべきことだと思う。

それに続いて前回のNHKバリバラではこんな特集が組まれていた。

 

「障害者殺傷事件3年 まちで暮らす」

https://www6.nhk.or.jp/baribara/lineup/single.html?i=1109#top

 

相模原の障害者施設で19人の命が奪われた事件からもう3年。この事件で障害者を“生産性のない存在”とした容疑者に賛同する声もあった。

 

社会の障害者に対する理解が進まない理由として、一緒に暮らしていないから」ということが言えると思う。

つまり冒頭の発言のように、障害者は施設へ入るものだとされてしまうと街から障害者が消えてしまい、その存在を知ってもらうことができないのだ。

 

「だって一緒に暮らせないでしょ」「施設の方が彼らのためだ」という声が聞こえる。

それは健常者の勝手な理屈だ。

一緒に暮らすために何が必要かを考えることが社会の責任じゃないか。

 

もちろん施設が不要という訳ではない。

障害を持った人が何も不自由を感じることなく日々を穏やかに過ごせる場所はあった方がいいに決まってる。

ただ、その施設にいることが必ずしも幸せとは限らないということを皆が知っておくべきだ。

 

番組では、知的障害者の約5%が自らの意思でなく施設に入っていると紹介された。

家族など身近な人がそこに入る方がその人にとっての幸せだと勝手に決めたというケースが多い。

もちろん重度の知的障害だとその判断力も定かではないため、誰を責めることもできない。

けれどもどんな障害があってもやはり1人の人間として好きなものを選ぶ権利がある。

番組内でもヘルパーをつけて施設の外で暮らすという提案がなされていた。

 

施設にいると自ら何かを選ぶという場面自体減ってしまうので、外に出てレストランに行くと食べたいメニューを選ぶことが大変だったりする。けれどもそういった“当たり前”の体験を重ねていくことで、社会に混ざって暮らせるようになっていくんだと思った。

 

障害者に限らず、外国人労働者なんかも一箇所に集められている傾向がある。

逆の立場になってはどうか?

自分が「あなたは左利きだからここで暮らしてね」「髪が長い人はあっちに行ってね」と言われたら勝手に決めるなと思うだろう。

阪神ファンが集まったり金持ちが高級住宅地に住むのとは違って自分に決定権がないのはよくない。

たまたま今は“健常者側”にいるだけなんだと自覚したい。

 

いろんな人がいる。その状態が“当たり前”でなければ、悲しい歴史を繰り返すだけだ。

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