ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

プラごみパン

近頃マイクロプラスチックというプラごみ問題が少しずつ話題になっている。

 

僕も去年それに関する本を読んで、完全にプラスチックを使わない生活は不可能でも、意識して少しずつプラスチックを減らすように取り組んでいる。

 

例えば、エコバッグ。

今までは当たり前のようにスーパーでレジ袋を貰っていたが、しっかりとした素材のエコバッグを持ち歩くことで不要なレジ袋を断る回数が格段に増えた。

でも、エコバッグは割と当たり前にやってる人も多いからわざわざ書く必要ないような…。

 

飲食店で考えることも多くなった。

例えばビニールに入ったお手拭き。僕はあれを使わないことにした。

綺麗なまま避けておいたり、店員さんに要りませんと伝えたりしている。

元々食事の前には必ず水道で手を洗う性格なので、注文をした後でトイレに行けば済むと思っている。

 

そして海外の有名飲食チェーンが次々と使用停止しているプラスチックストロー。

日本のカフェではまだ当たり前に出てくるので、これもなるべく断るようにしている。

 

しかし、先日入った飲食店で食後に柚子茶を頼んだ時の話。

食事が終わり空になったお皿を持って行ってもらう際に「ストロー要らないです」と言うつもりだったが、先に柚子茶が来てしまった。

しまった〜!ストローが入ってる〜!

これは仕方ないなと思って中の氷が少し溶けるのを待っていざ飲む時になって僕はストローで沈んだ柚子蜜をかき混ぜていた。

ストロー要るやん!!

断らなくてよかった。変な空気になるところだった。

お店には是非使いまわせるマドラー等を用意してもらえるといいと思った。

 

難しいことをする必要はない。ただ多くの人がほんの少しずつでもプラごみを減らす意識をするだけでも大きな効果があるんじゃないだろうか。

キュボロパン

平成に関するインタビューで池上彰が最も印象的な事件はオウム真理教だと話していた。

 

昭和が終わり、バブルが弾け、この先どうなるかという不安に苛まれた若者達にとって、とにかく“信じていれば救われる”という頼みの綱としてオウムが機能していたという。

 

確かにいつの時代も安心したいという気持ちは誰の心の中にも同じようにあると思う。

 

僕らも日頃から気をつけるべきだ。

怪しい宗教なら警戒もするだろうが、それは人の不安な心にそっと近づいてくるものだと思う。

 

将棋の藤井聡太が破竹の29連勝という偉業を成し遂げた際、彼が幼い頃から遊んでいたキュボロというおもちゃが紹介され、瞬く間に全国のおもちゃ屋さんから消えていった。

その後も問い合わせ殺到、2年待ちという話も聞いたことがある。

 

ある知り合いのおもちゃ屋さんから聞いた話。お客さんが孫へのプレゼントとして「藤井聡太が遊んでいたおもちゃ」を買いに来たが当然売り切れ。代わりに似たようなおもちゃを勧めると「キュボロじゃないとダメ!」と断られたという。さっきまでキュボロの名前も知らなかったというのに!

 

僕はこの光景に前半の話と繋がるところがあると思う。

 

藤井聡太のような賢い子に育てたいからキュボロを買う、という心理なのだろう。

それは子育てに対する不安や逆に大きすぎる期待の表れなのだと推測できる。

同じものを与えておけば、自分が安心できるのだ。

 

でも実際は違う。

同じおもちゃで遊ばせれば将棋で29連勝できるようになるはずがない。

藤井聡太はそのおもちゃが大好きで夢中になって遊んだことが本人にとって良かったのだ。

有名人ではなく自分の子供を見てあげてほしい。その子が好きで夢中になれるものを見つけてあげることが本当の藤井聡太への近道ではないだろうか。

 

不安になった時、誰もが何かに頼りたくなるものだが、一旦立ち止まり、自分が楽に安心したいだけになっていないか考えることも必要だろう。

キッチンパン

だいたい小学校高学年から英語に触れ始め、中学校に上がって本格的に授業やテストをするのが一般的だろうか。

 

僕が持っている語学のイメージは頭の中の「言葉の箱」に言葉やルールをどんどん入れていく感覚だ。英語でもドイツ語でも日本語でも。

生まれてから今日までずーっと日本語を使ってても、知らない言葉はどこまでもあるという意味で語学に終わりはないと思っている。

 

さらに付け加えると、正確でなくても相手に正確に伝わればいいと思う。

 

習いたての中学生が、

He is cooking in the kichin. 

と書いた時に、kitchenの正しいスペルを教えつつ、意味は伝わるので◯をあげる、そういう教え方はどうだろうか。

 

賛否あるだろうが、実際の社会はこんなことばかりではないだろうか。

相手が話しているのをいちいち遮ってまで訂正する人はいない。話の重要な部分に関わるなら指摘するだろうが、固有名詞が少し違っていたり、語順を間違えたくらいでは何も言わないだろう。正しく認識できればそれでいい。

 

本当に正しく、完璧な言葉を使いこなすことは母語であっても難しいのだから。

バツにしなくたっていいじゃんって思う。

決めつけパン

東京新聞の望月記者に対する菅官房長官の態度に対して中学生がネット上で署名活動をしたことに対するネット上の反応を見て。

 

結論から言うと、

自分に都合の良いことだけを本当だと信じて、都合の悪いことはデマだと決めつけるんだな

と感じた。

 

これはどっちの意見にも言える。

「その中学生はなりすましだ」という意見の人はどこかの誰かが貼り付けたツイート時間のデータを根拠に発言している。

「とてもいい中学生だ」という意見の人の中にも反対意見はデマだぞと言っていたりする。

 

いろんな情報が行き交って、何が本当かはわからない。

 

そんな世の中で大切なのは、

自分の好みの情報こそ信じる前にファクトチェックをし、

反対の意見を一旦受け止めなぜそういう見方ができるのかを考えることではないだろうか。

 

今日こんな記事が出た。

https://m.huffingtonpost.jp/entry/isoko-mochizuki-signature-campaign_jp_5c7e9d3be4b0e62f69e6cc5b?utm_hp_ref=jp-homepage&ncid=other_homepage_tiwdkz83gze&utm_campaign=mw_entry_recirc

 

ハフィントンポストが件の中学生と母親を直接取材した記事だ。

 

もちろんこれもメディアを通した内容なので賛否分かれるところもあると思う。

しかしこの記事で見るべき点はライターが本名顔出しで発信していることだ。

 

ここまでネット上に溢れたあらゆる情報源が“何処かの誰か”だった。

それはこの中学生も含めてそうだ。

そこでこのライターが本名で発信し責任を負うことで中学生に信憑性が生まれた。

これはメディアに求められる役割の一つではないだろうか。

 

どんな情報であろうと、信じる前に考えること、できれば情報源を確認することが大切だ。

食べ物の産地や内容物を見るのと同じように。

ネットニュースになるパン

村本が参院選に出馬するという記事があがった。

 

ファンは知っているように本人はスタンダップコメディで充分生活しているし、今後の目標に向かって努力している最中。

 

本人がTwitterで「どこから漏れた!?」とコメントしたのもくだらないデマにわざと乗っただけだとわかる。

 

それに対していろんな人が

「無理に決まってるだろ」

「お前が当選したら世も末」

と反応し、それがネットニュースになっていた。

 

少し前まで、テレビやラジオの発言がネットニュースになることが多かった。

これ自体、取材も何もせずただ家でテレビを見てれば書けるテキトーな記事だなぁと思っていたが、今はもう違う。

 

ネットニュースがネットニュースになっている。

 

どこかの誰かがテキトーに書いたことに対してどこかの誰かが好き勝手にコメントしたことを「◯◯がネットで話題に」と書かれている。

 

どうかしている。

こんなのを読んでいると本当に頭が悪くなる。

 

あからさまなアクセス稼ぎの見出しも気になる。

先日見たのは、

ムーミンパークでテロ、火災の防災訓練」

どう考えても悪意がある。

ムーミンパークはまだ開園していないし、書くとしても「ムーミンパークで防災訓練。テロや火災を想定」とかでいい。

 

本当に読む価値のある記事もある。

しかしこういった自分の利益だけを意識した記事が増えて、大切な情報が埋もれていくことは許せない。

迷惑かけてないパン

満員の電車に乗る時、ドア脇のところに立って本を読んでいる女性がいた。

 

僕の後ろにも乗る人がいたので、

「こういう時なんで本をしまってもらってもいいですか?」と尋ねた。

すると、

「迷惑かけてませんけど?」と返された。

「みんなが少しずつでもスペースを作れば…」と言うと渋々本をカバンにしまってくれた。

 

確かにその人は直接的に迷惑はかけていないと思う。

しかし僕の後に乗ってきた女性のカバンにマタニティマークが見えた。妊婦さんにとって満員の電車は不安な環境だと思う。もし大きく揺れたりした時に、どこか掴んだり手をついたりするところがある方がいい。そんな時に本を読んでいる人がいたら遠慮して手を出せないかもしれない。

本をしまうことで咄嗟の時の安全の可能性を少しでも作れるとならば、やはりしまった方がいいよなぁと車内で考えていた。

 

「自分は誰にも迷惑をかけてない」と思うより

「もしかしたら誰かの迷惑になっているかも」と考える社会の方が優しくないだろうか。

 

僕は悩んでいる。

 

あの状況で、妊婦さんに何か声かけはできなかっただろうか。

「狭くないですか?」とか尋ねてみたらどうなっただろうか。

 

本を読んでいた人に対してもだ。

ただ本をしまうように指図されてムッとしてないだろうか。

「何の本ですか?」とか気軽に話してみたらどうなっただろうか。

STARTING OVERパン

高橋優ライブツアーSTARTING OVERに行ってきた。

 

この5年くらい彼の曲に勇気付けられ、考えさせられ、涙させられてきた。

 

そんな彼のライブに初めて行くことができた。

 

音楽のライブに行く経験がそもそも少ない僕は、本当に楽しめるか不安だった。

 

しかしそんな心配は全くの杞憂だった。

 

1曲目のルポルタージュから一気に気分が盛り上がり、2曲目のストローマンで既に満足とも言える感覚に陥った。

 

この2曲の歌詞がとても良い。世の中には沢山の素敵なものと考えるべき問題が転がっているにも関わらず、簡単な方へ流れて行きやすい人々を描いている。

どこかのタイミングで「お前達のことだー!」と言ってくれたら気持ちいいなと思っていたが、まさに「どこかの誰かと片手で繋がり」の歌詞のところでスマホを弄る動作をしていた。

スマホばかりの人々への強烈なメッセージだがどれだけのお客さんに響いただろうか。

 

そして楽しいトークゾーンで触れた“目が笑ってない”話からいいひとを歌う流れも良かった。

 

僕にとって強烈な時間はその後だった。

象→高野豆腐→虹

この3曲の並びのところで急激に涙が止まらなくなった。

象の歌詞が今の自分が置かれた状況にピッタリと重なったからだ。

 

日頃から人と話す際に簡潔にわかりやすい順序と言葉を選んで結論に繋げることができているのに、親の前だけは完全に調子が狂う。結果納得がいかないままうまく言いくるめられてしまって後から嫌な気持ちだけが残っている。

この感情を最近も味わっていたため、歌詞の「心まで躾けられた」に大きく頷いて涙が溢れてしまったのだ。

 

そして高野豆腐。これも前の会社の時に仕事も人間関係も上手くいかなかった自分を当てはめてしまっていた。

もちろん最高に手の込んだアニメーションに笑いながら、僕は泣いていた。

 

その後に歌った虹で自分の感情がプラス思考に変えられる。これから先は明るい未来があることを自分でもわかっている。辛い過去を捨てて「数cmずつでいいから」ここからやってやるぞという気持ちにさせられた。

 

その後もHarazie!で楽しく盛り上がったり、リーマンズロックでまた涙したりととにかく感情のジェットコースターは上下左右に振り回された。

 

ライブ終了後は放心状態。

タオルは涙で濡れていた。

 

僕が好きなエンターテイメントはこれだと思った。

前にNetflixで見たハサン・ミンハジやハンナ・ギャズビーなどのスタンダップコメディもそうだった。客を爆笑の渦に包み込んだ直後に悲しい話をする。そしてまた旨がスッとするいい話もあり、様々な価値観で考えさせ、また笑いを生む。

 

僕の感情をこんなにも揺さぶってくれるならチケット代は安いものだとすら思える。

 

僕はこういうライブが大好きだ。

いつも行ける訳ではないが、また高橋優のライブに行きたいと思った。

 

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(客席にちらほらと割とご年配のおじさんがいるのがわかった。歌詞も覚えているようで熱狂していた。僕と同じようにこの人達も高橋優の楽曲にカタルシスを感じているんだと思う。そして彼らは重ねてきた経験の分、僕みたいには泣かずに心で受け止めているんだなと感じた。)