障害者に与える仕事が「単純労働」と呼ばれることに疑問を感じる。
例えばそれが同じことを延々と続けることで成立する仕事ならば、それは単純労働なんかじゃなく“同じことを続けられるという技術”の上の労働なんじゃないだろうか。
そもそも「単純」なんて言葉の背景には相手を見下している要素が感じられる。
障害があってできない事は多いかもしれないが、できることが何もない訳じゃない。
あるドイツのつみきメーカーの部長さんは、障害者を雇うにあたって「できないことを見るんじゃなく、彼らのできることを探すんだ」と話してくれた。
以前、そのメーカーの工場で欠けのあるつみきが排除されている場面を見てとても悩んだことがある。高品質を求めるのは当然とはいえ、障害者を見捨てない会社で不良品は棄てられている…。
だが最近になってこのモヤモヤが晴れた。使えないつみきや木屑などは集めて燃やすことで社内の暖房設備に回っているのだという。なるほどまさに「できないことではなく、できることを探す」を人にも物にも実践しているのだった。
だけど今の日本社会において「単純労働」はそういう意味を持っていない。
障害者や外国人労働者に対してよく言われるが、基本的に“誰でもできる仕事”“みんながやりたくない仕事”をすることだと思われている節がある。めちゃくちゃ悪く言えば「言い返してこない奴隷を雇った」くらいに扱われているように思う。
いつからそんなに偉くなったのか知らないけど、障害者にも外国人労働者にも職業を選ぶ権利があるはず。今のままでも出来ること、少し勉強すれば出来るようになること、そして何不自由なく暮らしていけるだけの給料がもらえること、そういった様々な側面からサポートしていくことが日本にはもっと必要なんだと思う。
あなたが「単純」と呼んでいるその仕事、あなた自身がそれで生きていけますか?