ソートベーカリー

小麦粉をこねてパンを焼くように、頭の中で考えたことを文章にしていきます。

応援上映パン

名探偵コナンの映画の応援上映開催が決まったという。

 

僕は子供の頃からコナンが好きで、映画は全て観ているしコミックは全巻持っている。

しかし身の回りにコナンの話が出来る人が1人もいない為、もしかすると僕しかストーリーを追っていないんじゃないかと疑ってすらいる。

 

御多分に洩れず今年も映画館に行って来たが、いまいち「応援上映」の必要性がわからない。

いや、それを楽しんでいる人はそれでいい。僕にはわからない楽しみがそこにあるのなら否定はしない。

ただ、コナンの映画に関してはサスペンスである以上「応援」が成立するのは初見に限るはずだ。次の展開や犯人がわかっているのにスポーツのような応援をする必要はない。

 

しかし、「応援上映=声を出していい」という図式が成り立つとすれば、ボヘミアンラプソディーこそ相応しいと思う。

そんなにクイーンが好きでなくても、何処かで聞いたことのあるノリの良い楽曲が大音量で流れてくれば誰もが手拍子をしたくなる。

誰にも遠慮することなく手を叩いたり、合わせて歌ったり出来る環境という意味で、ボヘミアンラプソディーの応援上映が大成功したというのは納得がいく。

 

だがここで思うことがある。

通常の上映回で感極まって手を叩くことはいけないことなのだろうか?

 

欧米の映画館では音楽に乗って肩を揺らしたり、感動のあまりエンドロールで涙を流しながら拍手をすることがあるというのを見たり聞いたりしたことがある人もいるだろう。

そういうのに倣って日本で応援上映が求められているという側面もあると思う(最初は子供向けアニメの戦闘シーンかなと思うけど)。

感情を外に出すことを躊躇いがちな日本人でも思い切り態度に出しやすい場所ですよ、というのが現状一般に言われる応援上映だ。

 

では改めて、

通常の上映回で感極まって手を叩くことはいけないことなのだろうか?

 

大声を出す準備なんてしていない、楽しみで見た映画で物凄く感動した時、わんわん泣いたり拍手したりするのは自然なことだと僕は思っている。

 

去年そんな体験をした。

映画のクライマックスで僕はとても感動し、涙を流した。ハンカチぐしょぐしょ。僕だけでなく周りのあちこちから鼻をすする音が聞こえてきた。あの時、明らかにみんな泣いていた。

そこでエンドロール。僕は拍手をした。みんな同じ気持ちだと思っていた。

結果、拍手をしたのは僕だけだった…。

僕の拍手だけがパチパチと鳴った。

 

応援上映というものが認知されることで、余計に通常の上映回で感情を出せなくなっているような気がする。

しかし忘れないでもらいたい。応援上映が行われるほど派手ではないが心の奥にグッと刺さる映画は今までもこれからも存在する。そんな映画に出会った時に素直に感情に従える方がいいじゃない。 

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