今朝ラジオを聴いていたら衝撃的なニュースが飛び込んできた。
無差別殺傷。今日はどのニュース番組も取り上げるに違いない。
電車の中で受けた一報でまず思ったこと、それは今隣に座っている人は信用できるのか?
街中のどこで悪意を持った人と出くわすかわからない。もし同じ状況になった時自分はどう対処するか。そんなことを考えていた。
次にニュースサイトを見て気づいたことがある。
ほとんどの人が揃いも揃って自殺した加害者について「一人で死ねばいいのに」と言っている。
そこで12時頃、Twitterで「死ねばいい」と検索すると数秒毎に同様のツイートが流れてきた。
恐い。
何処の誰かも知らない他人に対し「死ねばいい」と簡単に言えてしまう世の中が恐いと思った。心の底がモヤモヤした。
加害者は死んでしまったので真相はわからないが、日々積もり積もった何かが悪い方向に溢れ出したのだと推測する。
ムシャクシャしたり自棄になったりすることは誰にでもあるだろう。そんな気持ちをうまく流せず溜め込んでしまうことだって誰にでもある。決して他人事ではないはずだ。
そう思った時、僕は「一人で死ねばいい」と切り捨てることはできなかった。
むしろ、良くない気持ちが張り詰めた人に気づいてお節介でも声をかけてあげられる世の中を期待したいと思った。
さらに「一人で死ねばいい」と言えてしまうその考えの延長線上に「ダメな奴、役立たずは社会の為に死んでいい」という発想が潜んでいるような気もする。
逆に言えばそれだけ誰もがこういう事件の犯人にもなりうると言えるのではないだろうか。
このようなことを考えていると藤田孝典氏がこのような記事を載せていた。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/
それ言わないで〜という主張は同じだが、この方はその言葉が次の誰かを追い詰める危険性について言っているのに対し、僕はその言葉を使う全ての人にその可能性があるよと言っておきたい。
街を歩くのは本当に恐い。刺されるかもしれないし、轢かれるかもしれない。気をつければ防げる程度を超えたことが立て続けに起きている。
冒頭で述べたように、目の前の知らない人にいちいち警戒してしまう。
僕が思い出したのはクリントイーストウッドの『15時17分、パリ行き』という映画だ。この実話でテロリストと対峙した若者のように、いざという時の為にある程度身体を鍛えておくというのも一つの対策だと思うようになった。
何がなんでも生きる。