ジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」の中の幾つかの表現が気になったので自分が感じたことと合わせて紹介する。
(なお、ハヤカワ新訳版から抜き出している)
- 作者: ジョージ・オーウェル,高橋和久
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/07/18
- メディア: ペーパーバック
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かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているのかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているのかに気づくほど社会の出来事に強い関心を持ってもいない
なんというか、1940年代に書かれた小説とは思えないほど今の社会をよく表していると思う。現実に起きている社会問題がなかなか報道されず、人々は知らないまま過ごすため話題にも上らないし、実際衣食住に大きく困ることもないため気にもならなくなる。
国中に広まっていたユーラシアに対する憎悪はとどまるところを知らなかった。行事の最終日に公開処刑が予定されていたユーラシアの戦犯二千人がもし群衆の手に渡ったら、ずたずたに引き裂かれていたに違いない。それほど激しい狂躁が渦巻いていた。まさにそうした最中に、つまるところオセアニアはユーラシアと戦争をしているのではない、と公表されたのだ。交戦国はイースタシアであり、ユーラシアは同盟国である、と。
ここを読んだ時に思い浮かんだのが、悪者叩きの風潮だった。
一度不祥事や犯罪行為が明らかになるとまさに鬼の首を取ったように袋叩きにする風潮。「相手は悪者」とわかれば徹底的に社会から抹殺すべきだ!となっているが、しばらくしてまた別の悪者が現れると全体の矛先が一斉に変わるあの感じだ。
もし万人に等しく余暇と安定を享受できるなら、普通であれば貧困のせいで麻痺状態に置かれている人口の大多数を占める大衆が、読み書きを習得し、自分で考えることを学ぶようになるだろう。そうなってしまえば、彼らは遅かれ早かれ、少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速やかに廃止してしまうだろう。
うん、ここに要点が集約されている気がする。
国民に知識を与えると立場が揺らいでしまうため、わかりやすい悪者や目を引きやすいタイトルのニュースで引き付けたり、毒にも薬にもならないバラエティ番組で満足感を与えておく。上の側からすれば考えずにいてもらうほうが楽なんだと思う。
大衆が自発的に反抗することは決してないし、抑圧されているからという理由だけで反抗することも決してない。現実的には、彼らが比較の基準を持つことを許されない限り、自分達が抑圧されているという事実に気づきさえしないのだ。
生まれてからずっと同じ土地に暮らしているとそこの生活が当たり前のものになってしまう。他では絶対にありえないことが”習慣でやってきたから”という理由で続いてしまう。だからこそ他の地域に出ることは価値がある。比較の基準を持ったうえでどうあるべきかを考えることはとても大事なことではないだろうか。
幼年時代に受けた入念な頭脳訓練は、ニュースピークで言うところの犯罪中止、黒白、二重思考を中心に行われるのだが、その訓練のおかげで、彼はどんな問題についても深く考えたいとは思わないし、またそうすることもできないのである。
今起きていることは間違っている、と頭の中ではわかっていても、それをなんとなく処理してしまったり、むしろ声を上げる人を”ヤバい奴”かのように扱ったりすることもこの文の中に含まれていると思う。民衆としても考えないことの方が楽だから。
党が権力を追求するのは、人間が全体として意志薄弱で臆病な生物であって、自由に耐えることも真実と向かい合うこともできないから、自分よりも強い他者によって支配され、組織的に瞞着されなければならないためである。人類は自由と幸福という二つの選択肢を持っているが、その大多数にとっては幸福の方が望ましい。
自由を捨てて幸福を取る。しかしその幸福は権力者によって定められた幸福であり、本心からくる喜びではないことを自覚しなくてはいけない。決められたことではなく自分が今したいことをする、その自由があることが本当は幸せであるべきではないだろうか。
この本を読んで、自分で調べ、知識を得て、考えて、発信して、行動することの重要性を改めて感じた。
一党独裁のディストピアを題材にした小説なので僕の意見も相当左寄りに見えてしまうな。